天文十九年(一五五〇)まで、百姓が年貢以外に北条氏に負担した公事(くじ)は、役銭(反銭(たんせん)・城米銭・棟別(むなべち)銭)、夫役(ぶやく)(陣夫・廻陣夫・大普請・押立)、雑公事(ぞうくじ)(竹木や炭俵等の上納)であった。しかし、同年四月一日、「国中諸郡退転(たいてん)に就(つ)き、庚戌四月諸郷の公事赦免(しゃめん)の様躰(体)の事」という公事の赦免令が氏康によって領国にいっせいに発令され、公事負担のあり方が改革された。「退転」とは、窮乏して生活が成り立っていかない状態を示す言葉である。現在、伊豆の長浜(静岡県沼津市)・牧之郷(静岡県修善寺町)、相模の一色郷(神奈川県小田原市)・磯辺郷・田名郷(ともに神奈川県相模原市)、武蔵の本牧郷(横浜市)と南・北品川(品川区)の百姓中に宛てられたほぼ同文の印判状が、写も含めて八通知られている。その内容は、雑公事を廃止し懸銭(かけせん)(田畠合計貫高の六パーセント)を設置することと、陣夫・廻陣夫・大普請・城米銭賦課の再確認である。一方、郡代や触口といった役人が何らかの負担を強制したり、給人や代官が百姓の「迷惑」となる公事を賦課した場合には、小田原城へ訴え出ること、四月一日以前に借銭・借米をかかえて逃亡した百姓で元の所にかえり住んだ者には、借銭・借米を免除すること、小田原本城主の発給する虎の印判状がない場合には郡代夫を負担しなくてもよいこと、などが保証された。戦国期は稲作には不適な寒冷な時代で飢饉が頻発していた(峰岸一九九五)。初春から初夏にかけては穀物の不足する時期でもある。そうした厳しい自然環境下での諸負担にくわえて武蔵攻略の戦乱が打ちつづいたことが、人々の生活を圧迫し、ついには「国中諸郡退転」という状況をつくりだしていたのであろう。百姓の要求は年貢・公事を問わない負担の軽減であったが、北条氏は統一的な賦課体系のなかった公事の整理によってのみ事態の収束をはかろうとしたのである(池上一九七七)。
これによって、百姓が北条氏にたいして負担する年貢以外の課役は、役銭(懸銭・反銭・城米銭・棟別銭)、夫役(陣夫・廻陣夫・大普請)となった。賦課基準が明確でないものもあるが、反銭は田の分銭の八パーセント(後に二倍に増徴)、大普請がほぼ二〇貫文に一人の割合と、棟別銭を除く役銭と夫役は検地によって定められた郷村の貫高を基準として課されていた。棟別銭は棟別銭取帳が郷村ごとに作成され、屋敷一間を単位として、おおむねの地域で五〇文とされていたが、天文十九年に三五文に減額され、弘治元年には正木棟別銭が新たに設けられた(佐脇一九六九)。
峰岸純夫「自然環境と生産力からみた中世史の時期区分」『日本史研究』四〇〇、一九九五年
池上裕子「戦国期における農民闘争の展開―北条領国の場合―」『歴史評論』三二六、一九七七年
佐脇栄智「後北条氏棟別銭考」『仏教史研究』四、一九六九年、同氏『後北条氏の基礎研究』一九七六年に再録