多摩市域の検地

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天正十四年(一五八六)と推定される戌三月十二日の松田憲秀印判状写(資一―810)によれば、関戸郷は貫高五五〇貫六三四文の地とされ、うち四五二貫八六文が北条氏への定納分と定まっている。
 『新編武蔵国風土記稿』上和田村の項によれば、天文三年十月に「川部八村」に検地が行われたという(資一―782)。「川部八村」とは、百草(日野市百草)・上和田(多摩市和田)・中和田(同)・寺方(多摩市東寺方)・落川(日野市落川)・関戸(多摩市関戸)・原(多摩市関戸近辺)・一之宮(多摩市一ノ宮)の八か村で、吉良市之進・鈴木与兵衛・山田武助の三名が検地を行った結果、永銭三〇〇貫文を負担する地として定められたという。吉良・鈴木・山田の三名の検地役人についてはまったく不明であるが、八か村のうち上和田・中和田両村については、多摩市和田の飯島一郎家に伝来した天保十一年(一八四〇)作成の『両和田邑(村)古今鏡』(資二社経20)という史料の中に、つぎのような興味深い記述がある。
和田村之義者、天文三甲午年御縄改ニ而惣高四百拾三石八斗壱升之所、天文五年ニ六拾壱石八斗余、川辺之内山角牛太郎殿御領地之内水辺高不足有之候ニ付、御たし高ニ相渡し、是を並木和田と言也、

 和田村は、①天文三年の検地によって村高四一三石八斗一升の地となったが、②「川辺」(『新編武蔵国風土記稿』にいう「川部八村」か)のうちの山角牛太郎の知行地が水際で高が不足していたため、③天文五年に六一石八斗余が「たし高」として山角氏の知行地に組み入れられた、④組み入れられた地を並木和田という、というのである。すでに述べたように、北条氏の検地は石高ではなく貫高で表示したものであるから、この史料の石高記載の数値は戦国期の検地の結果を示したものではない。しかし、天文年間の関戸郷に山角氏の知行地があったとすることは興味深いので、以下そのことについて考えてみたい。
 『寛永諸家系図伝』所載の山角系図によれば、戦国期の山角氏で牛太郎を名乗ったことが確認できるのは、四代目の定吉である。定吉は相模出身で寛永十五年(一六三八)に江戸で七十歳で没している。もと北条氏照の家臣であったが、氏照への忠義とその勇気が徳川家康から認められ、天正十九年に関戸郷に一〇五〇石を宛行われている。没年から逆算すると天文三年に定吉はまだ誕生していない。同系図では父の定次も天文三年に九歳、叔父定勝も六歳となる。よって、該当するとすれば祖父定吉と思われる。しかし、『北条氏所領役帳』には馬廻衆として山角四郎左衛門(祖父定吉あるいは康定カ)、山角四郎右衛門、山角刑部左衛門(定勝)、山角弥重郎の記載があるが、いずれも関戸郷には所領を有していない。ところが、近世に降り正保年間(一六四四~八)あるいは慶安二~三年(一六四九~五〇)作成とされる『武蔵田園簿』によれば、和田村のうちに山角氏の知行地六八石六斗五升六合が存在している。この知行地は「関戸並木」と称される地であるが、受領年代をはじめ不明な点が多い(資二社経・和田村解説)。以上から判断すれば、『両和田邑(村)古今鏡』の記載は、おそらく北条氏による検地年代と天正十九年以降の関戸並木の知行地受領とが混同されて伝承されたものと考えられる。
 『新編武蔵国風土記稿』落合村の項には、元亀三年(一五七二)に笠原越前守によって落合村に検地が行われたとある。笠原越前守について、明治十二年(一八七九)四月の『落合村誌』(資三―119)には、落合村が元亀の頃より北条氏家臣笠原越前守信為の領地となったとある。『寛永諸家系図伝』所載の笠原系図によれば、笠原氏は初代信為が早雲に仕え、二代康勝が氏綱に、三代平左衛門照重(天正九年に伊豆国戸倉で討死)が氏政に仕えたという。『落合村誌』にいう信為とは、初代信為のことだが、元亀頃の当主は三代平左衛門照重である。『北条氏所領役帳』では、笠原平左衛門は小机衆に編成され、一二八貫文のうち九〇貫文を武蔵国久良岐郡師岡(横浜市)で知行している。信為の官途が「越前」であることから照重もまた越前守を名乗った可能性があるが、馬廻衆の一人で伊豆国田方郡奈古屋(静岡県韮山町)・相模国東郡泉郷(横浜市)・武蔵国都筑郡八朔(同)に一九一貫一八〇文を知行した笠原藤左衛門(康明)が天正期に越前守を称していることから、落合村に検地を行ったのはこの康明であったとも考えられる。