高麗名字中

730 ~ 731
江戸時代後期の幕臣で当代随一の文人でもあった大田南畝(蜀山人)は、文化五年(一八〇八)十二月十六日より堤防の状態などを検分するために多摩川巡視を行なっている。南畝は六〇歳という年齢にも関わらず職務を精力的にこなしたが、旺盛な好奇心から一〇六日に及ぶ巡視の余暇に各地の見聞を『調布日記』『玉川砂利』『玉川披砂』『向岡閑話』『玉川余波』(『大田南畝全集』に収録)に書き綴っており、多摩川流域の中世史研究にも多くの素材を提供してくれる。また、この巡視で書写した家伝も含めた伝記・古文書集に『家伝史料』(『史籍雑纂』第三・『大田南畝全集』に収録)がある。この『家伝史料』巻之六には鎌倉後期から得恒郷を中心に所領を展開した高麗(こま)氏に関する史料も掲載されている。
 『家伝史料』中で最も注目されるのは、岩付太田氏の重臣細谷刑部左衛門尉資満が永禄十年(一五六七)十月十八日に高麗彦次郎へ下した高幡不動堂座敷次第写である(資一―802)。この史料は、高麗氏の一族が年頭行事として正月十三日に高幡山金剛寺において集会を行なう時の座順を示したものである。これによれば、新井村に高麗山城守、豊田村に高麗平次左衛門、三沢村に高麗近江守、堀之内村に高麗左衛門、河内村に高麗越前守、田之口村に平山越後守、程久保谷に高麗勘解由が「名字中」として同族的なまとまりをもって領主支配を行なっていたことが知られ、この史料に対応する絵図も『家伝史料』に収められている(資一―803)。この絵図は、『新編武蔵国風土記稿』新井村項の叙述にも利用されている。ただし、岩付太田氏は永禄七年(一五六四)七月二十三日に内紛で太田資正が子息の氏資に追放され、北条氏領国下に組み入れられていたが、その氏資も永禄十年八月に配下の五三騎とともに上総国三船台において里見氏と戦い全滅している。この頃の高麗氏の動向は必ずしも明らかではないが、少なくとも永禄十年十月十八日時点の状況を示すものではないとの指摘がある(日野市一九九四)。しかし、太田氏資戦死後、北条氏政の次男氏房が岩付城に入っており、この文書を発給した細谷資満は、岩付城主太田(北条)氏房の家臣団に編成されている(井上一九八二)。このことは、完全に北条氏の支配下におかれた岩付城において、太田氏旧臣の一部がなおも氏房家臣団に編成されており、旧領を回復させることにより北条氏への求心力を高めようとした可能性も残されている。

図5―82 高幡不動堂座敷次第写『家伝史料 巻6』(資一―802)

  日野市史編さん委員会『日野市史』通史編二上、一九九四年

  井上恵一「岩付城主太田氏房の家臣団について(上)」『埼玉史談』二九―三、一九八二年