享禄三年(一五三〇)六月十一日の小沢原合戦の結果、多摩川中流域がほぼ北条氏の支配下に入ったとされる(資一―780)。『北条氏所領役帳』によれば、関戸郷は北条氏の直轄領とされ、関戸郷の内から五〇貫文が代官松田左馬助憲秀に宛てられている(資一―793)。関戸郷の代官になっていた松田憲秀は、相模西部の名族波多野氏の庶流で、相模国足柄上郡松田郷(神奈川県松田町)を本貫地にしていた。この内、十五世紀半ばより頼秀・盛秀・憲秀・直秀と続く一族がここで扱う松田氏である。十五世紀後半の松田氏は、小田原に本拠をおいていた大森氏に圧迫され苦境にあったらしいが、明応四年(一四九五)秋、北条早雲の小田原侵攻に連係して戦功をあげ、北条氏とも姻戚関係を結び北条氏の重臣となっている(南足柄市史編集委員会一九九一)。松田氏の内、最も著名なのは憲秀で、永禄十二年(一五六九)に盛秀より家督を継いでいる。憲秀の所領の内には武蔵国高麗郡横手三五貫文があるが、憲秀が横手の代官であった山口重明に関戸郷勝河村と乞田村を宛行ったのはこの様な関係があったからであろう(資一―811・813)。恐らく勝河村二五貫文と乞田村二五貫文は、憲秀の知行分五〇貫文からの知行宛行であったのではあるまいか。この宛行には、豊臣秀吉政権との主戦論者であった松田憲秀が、独自に軍備の増強を進めていた背景が考えられる。
北条氏直轄領の代官として関戸郷を支配していた松田盛秀は、関戸郷の有山源右衛門に関戸宿の問屋・伝馬役を申付けている(資一―790)。また、盛秀の家督を継いだ憲秀は、有山源右衛門に対して関戸郷中河原の開発にともなう免税や関銭徴集を命じている(資一―807・813)。松田氏の関戸支配は、現地に又代官(代官の代官)を派遣して現地支配を代行させていたが、天正十四年(一五八六)三月十二日憲秀は、又代官森岡某の不正により又代官を廃止して関戸郷の百姓六人に所務を請負わせたことが特筆される。
天正十八年七月六日、豊臣秀吉に屈した北条氏直は小田原城を開城したが、強硬論者であった憲秀は秀吉によって北条氏政・北条氏照・大道寺政繁とともに切腹を命じられた。なお、天正十七年に松田家家督を継いだ直秀は、氏直とともに高野山に入山した。
南足柄市史編集委員会『南足柄市史別冊一 松田氏関係文書集』一九九一年