関戸郷とその周辺

733 ~ 735
北条氏の家臣団や寺社などの知行貫高を記載した『北条氏所領役帳』には、関戸郷周辺の領主として布施善三・豹徳軒・垪和氏続・小山田信有が記載されている。ただし、『北条氏所領役帳』には八王子衆・鉢形衆・岩付衆・河越衆などが記載されていないので、岩付衆に編成されていた可能性がある先述の高麗氏については明らかに出来ない。
 関戸郷の隣郷である由木郷を領有した布施善三は、小田原衆に属し相模国中郡片岡(神奈川県平塚市)を本拠にしていたと考えられ、同所の曹洞宗竜源寺には布施善三の墓と伝える五輪塔がある。善三の実名は明らかにされていないが、三河守康貞本人かその一族であろう。
 「関戸近所、増井分」を領した豹徳軒は、もと扇谷上杉氏の家臣上田氏の一族で、江戸衆に属しており『北条氏所領役帳』に記載されている上田一族の中では最も高い知行貫高を有している。豹徳軒が領した増井は、現在の日野市百草に比定され、百草園内にかつて所在した松蓮寺の山号を升井山あるいは増威山と称し、増井坂という通称地名も残されている。
 小沢郷を領した垪和又太郎氏続は、松山衆に属しており天文十五年(一五四六)四月二十日夜の河越夜戦の戦功により小沢郷二一八貫の地を与えられている(資一―783)。また、氏続は永禄十二年(一五六九)に駿河国興国寺城の城代となり、天正二年(一五七四)二月に没している。官途は伊予守。
 小山田庄一六か所四一九貫八一二文を知行していた小山田弥三郎信茂(のち信有と改名)は、他国衆で甲斐国都留郡に本拠があり武田信玄の家臣になっていたが、北条氏領国内に包摂されていた小山田庄の課役負担を請負う代りに北条氏より小山田庄の領有を認められていた。信有は織田信長に内通し武田氏滅亡に加担したが、その後信長により殺されている。
 永禄六年(一五六三)七月二十八日、これまで無足だった三沢郷(日野市)に拠点をおく三沢十騎衆に所領が宛行われた(資一―800)。天正八年(一五八〇)十二月八日、北条氏照は、高幡郷内の平山大学助知行地を宇野藤八郎光治に宛行っている(資一―806)三沢衆は、土方氏を中心とする三沢郷の土豪集団である。この三沢郷は、高幡山金剛寺所蔵土方文書中の天正十八年八月七日の太田一吉書状に見える「南河辺郷」と同意と考えられる。
 関戸郷には、代官松田氏や山口氏の他に、天正十七年三月十二日松田憲秀印判状写(資一―810)によると、深谷図書助・深谷半七郎・斉木(佐伯)神二郎・相沢某・小林神衛門などの給人がいた。この内佐伯氏・小林氏は、近年発見された聖観音菩薩像像内銘に所見があるので次に示す。
  奉像立逆、為佐伯豊後・三郎右衛門・九郎右衛門・小林五郎兵□・□尊以上五人、
    天文拾三年七月廿三日
                         筆者 花蔵坊
                        仏所 春山

図5―83 聖観音菩薩像

 この聖観音菩薩像は、乞田村大貝戸の観音堂に奉納されていたもので、のちに乞田吉祥院に移されている。また、十五世紀半ばの関戸郷は、鎌倉の鶴岡八幡宮領であったことは既に述べたが、永正年間(一五〇四~一五二一)に鶴岡八幡宮が関戸郷の安堵について扇谷朝興に運動していたことが知られ(資一―776)、さらに天正十八年七月十七日の鶴岡八幡宮領注文案には、関戸郷の内二〇貫文の地が鶴岡八幡宮領として確保されていたことが見える(資一―820)。恐らく、天正十七年三月十二日の松田憲秀印判状写の前欠部分には、鶴岡八幡宮の記載もあったのであろう(資一―810)。