鎌倉街道と甲州街道

735 ~ 736
北条氏による相模・武蔵支配が進行する中で、小田原本城と各支城、各支城間を結ぶ交通網が整備されていった。後述するように主要道の宿には伝馬役が課され、北条氏の必要とする物資や飛脚、職人などを迅速に移送する便がはかられた。鎌倉街道上道は鎌倉から上野国に通じる道で、途中、玉縄城(神奈川県鎌倉市)、武蔵国北西部の河越城(埼玉県川越市)、松山城(埼玉県吉見町)、鉢形城(埼玉県寄居町)など地域支配の拠点となる支城を結んでいた。北条氏が武蔵・上野の攻略をすすめていく上で鎌倉街道のはたした役割は大きく、それゆえ、戦国期においても鎌倉街道の多摩川渡河点に位置する関戸はいぜんとして重要な地位を占めていたのである。さらに府中崖線の下を東西に後に甲州街道と称された道が通り府中で鎌倉街道と交差した。この道は、北条領国では八王子から府中を経由して江戸とを結ぶ幹線道であった。北条氏照の滝山・八王子領の支配が展開してからは、滝山城・八王子城(ともに八王子市)が多摩郡・高麗郡・入間郡などの政治・軍事的中心となったため、多摩市域や府中にとって重要な道であった。このほか、川崎街道の古道とされる道が多摩川右岸のほぼ川沿いに通っていた。
 対岸の府中への渡し場は、多摩川の流路が変化しているため場所は特定できない。多摩川を利用した上・下流地域との水運も展開していたと思われる。しかし、品川湊・神奈川湊を経由した府中と伊勢・熊野との水運によるつながりは、明応七年(一四九八)八月二十五日に発生した東海沖を震源とするマグニチュード八・二~八・四の大地震津波により、紀ノ川河口(和歌山県和歌山市)から房総半島南部にいたる港や船舶、梶取などの水運従事者が多大の損害をうけたため、これを契機に十六世紀には太平洋水運が急速に衰退したという指摘があり(峰岸一九九五)、これにともなって衰えたものと思われる。
  峰岸純夫「中世東国水運史研究の現状と問題点」、峰岸純夫・村井章介編『中世東国の物流と都市』一九九五年