①天文二十四年(一五五五)乙卯正月十一日 松田盛秀判物(資一―790・口絵写真)
②甲子(永録七年・一五六四)九月二十日 北条氏政印判状(資一―801)
③乙酉(天正十三年・一五八五)三月二十四日 松田憲秀印判状(資一―807・口絵写真)
④戌(天正十四年・一五八六)三月十二日 松田憲秀印判状(資一―810)
⑤子(天正十六年・一五八八)九月二十三日 松田憲秀判物(資一―812)
②と、有山源右衛門ほか小磯三郎衛門・増田市衛門・鈴木八郎左衛門・塩沢弥左衛門・帰白など、『当社記録』にみえる「関戸六ケ村」の代表者と思われる六人に宛てられた④を除き、他はすべて有山源右衛門宛てである。『調布日記』によれば、文化六年(一八〇九)正月六日に関戸村名主源左衛門(相沢氏)宅を訪れた大田南畝は、この家がもと有山源右衛門という古い家だとして、右の五通の古文書を見せられて書き写している。文政十一年(一八二八)成立の『新編武蔵国風土記稿』には、有山氏は源右衛門(元貞カ。本節第三項で詳述)の子息新右衛門の代に絶家したため、関戸村名主源左衛門(相沢氏)がこれら五通を所蔵していた旨の記載がある。明治十二年(一八七九)四月の『関戸村誌』(資三―115)では、もと乞田村有山清左衛門方に伝来したものとして、そこに記載のない④を除く四通を相沢良作の所蔵としている。少なくとも①と③の二通の原文書(昭和五十九年、多摩市指定有形文化財)は、杉田氏の蔵するところとなり、平成四年(一九九二)四月一日以降は両通とも多摩市に所蔵されている。残る三通の原文書の所在が不明であるため、多摩市所蔵の二通は多摩市域に伝来した唯一の中世文書として貴重なものである。以上五通は戦国期の多摩市域の歴史を解明していく上でもっとも重要な手がかりとなるものであり、本項でもこれらの文書を活用して、有山源右衛門を基軸に戦国期の関戸の宿場・市場としての側面にスポットをあててみたい。
①天文二十四年正月十一日の松田盛秀判物(資一―790)は、北条氏直轄領であった関戸郷の代官松田盛秀から、有山源右衛門が関戸宿の道者(どうしゃ)(社寺・霊場への参詣者)の問屋(といや)にくわえて、この日から商人問屋たる権利を保障されるかわりに、伝馬(てんま)以下のことを怠りなく差配するよう命じられたものである。有山氏による問屋の権利の独占と伝馬役の差配とが対応関係にあることは重要である。問屋とは、商人や道者に宿舎を提供し(阿部一九九六)、宿に屋敷をもつ町人に伝馬役を配分し調達する責任者である(池上一九八四)。時宗の本山無量光寺の門前町として知られ、相模川の渡し場で武蔵・上野、甲斐方面への交通の要衝であった相模国高座郡当麻宿(神奈川県相模原市)では、関山氏が商人問屋と道者坊の権利を北条氏から認められ、商人は問屋に、道者は坊にと別々に宿泊するよう定められている。それは無量光寺参詣の道者が多く参集したためであろうが、関戸宿では商人も道者も同じ問屋に宿泊することになっている。
また、戦国期の関戸にも関が設置され、関銭五貫文の上納責任を有山源右衛門が負っていたことが、④戌(天正十四年)三月十二日の松田憲秀印判状写(資一―810)に「五貫文 関銭 有山源衛門に申し付く」とあることからわかる。源右衛門は、子(天正十六年)九月二十三日にも松田憲秀から以前同様に不正なく関銭を徴収するよう命じられている(⑤、資一―812)。関銭の額について、天文十七年、鎌倉の荏柄天神社造営費に関銭をあてる目的で設置された関の例では、商人方と道者方に区分して関銭が徴収され、商人方の麻・紙・布類の荷物は一〇文、あい物馬五文、背負荷三文、道者方の荷付馬・牽馬・乗馬と手振人十文など、積み荷の種類や馬の有無等で額が異なっている。また、武田氏の領国甲斐との国境に位置し甲州道の通る小仏峠(八王子市・神奈川県相模湖町)や、津久井を隔てて甲斐方面との往来が盛んな相模当麻宿にも関が設置され、当麻宿では問屋関山氏が「関所の法度」に基づいて通過する物資の見分を行っていた。北条氏が国境や交通の要衝に設置したこれらの関は、領国内外への物資・人の移動を統制し、必要に応じて荷留や塩留を行うなどの軍事的・経済的機能をはたしていた。
さて、これまで関戸郷と関戸宿との区別をはっきりさせずに記述してきたが、この点は明確にしておく必要があろう。
永禄十年(一五六七)の武蔵国入間郡宮寺郷志村分(埼玉県入間市)の検地では宿屋敷二貫文が免除され、武蔵国品川郷(品川区)では百姓地と宿との区分があった。池上裕子氏は、宿も検地によって把握されたこと、宿に屋敷をもつ者が町人とされ伝馬役が賦課されたこと、伝馬役は宿の貫高に比例して負担数が定まったことを指摘している(池上一九八四)。つまり、宿とは独立した行政単位ではなく、郷村の一部を構成する町場なのであり、関戸宿とは関戸郷の一部をなす町場であったと考えられるのである。その景観は、町人の屋敷が乞田川と愛宕山の間を南北に貫く鎌倉街道沿いに立ちならび、周囲の郷村の景観とは明らかに異なる空間であっただろう。
関戸宿の場所については、『新編武蔵国風土記稿』関戸村の項に「宿平」と「本村」に宿駅が置かれたという伝承が記されている。「宿平」「本村」は現在の関戸五丁目に比定され、府中方面から大栗川を越えて、西は東寺方、東は乞田川、南は貝取を境として鎌倉街道沿いに軒が連なる地域である。近世に関戸村と貝取村の境が熊野社とされたことからすれば、関戸宿は熊野社より北側、おそらく大栗川付近まで鎌倉街道に沿って展開した町場であったと思われる。また、④戌(天正十四年)三月十二日の松田憲秀印判状写(資一―810)には、「三百文 相沢屋敷に出す、付送に就き」「三百文 小林神衛門 同理(ことわり)」とある。付送とは人や馬に荷物をつけて送ることをいう。伝馬役負担の経費として相沢某と小林神衛門は三〇〇文の給分を得ていたのであろう。近世に関戸村の名主を勤めた相沢氏の屋敷(現在は小山三千雄氏の宅地)が熊野社の北側約二〇〇メートルのところに鎌倉街道に沿ってあるが、「相沢屋敷」とはこれに比定することができるであろう。
図5―84 関戸宿近辺概略図
〔図中の「1996年」は「1956年」の誤り〕
阿部浩一「戦国期東国の問屋と水陸交通」『年報都市史研究』四、一九九六年
池上裕子「後北条領国における身分編成と役の体系」『日本史研究』二六二、一九八四年