六斎市

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交通の要衝は市揚がひらかれる場でもあり、常設店舗のほか、市の日には他所から商人がやってきて賑わう場所であった。②甲子(永禄七年)九月二十日の北条氏政印判状写(資一―801)は、つぎの三つの内容からなっている。
  (1)関戸郷で以前から開かれていた市の日を、一か月に三日・九日・十三日・十九日・二十三日・二十九日とする。

  (2)伝馬役は平常時三疋・戦時十疋とする。これは今年と来年だけの措置で、寅年(永禄九年)からは以前同様とする。

  (3)濁酒役と塩合物役(しおあいものやく)(塩漬けにした魚類に課した税)は免除する。

 関戸郷では、永禄七年(一五六四)以前から市場が開かれており、それが月に六回(三と九の日)開かれる六斎市であったことがわかる。六斎市は人々が非自給品(塩、鉄製品、木製品、陶器など)を入手したり、あるいは生産物(米・麦・大豆、魚介類、布など)を販売する重要な場所であった。室町時代には商品経済の発展によって各地に六斎市が成立し、戦国期には領国経済の発展の要となるが、近世にはいると城下町が交換経済の中心的な機能を担うようになり、その経済的地位を失っていく。『新編武蔵国風土記稿』によれば、多摩郡の市場は、関戸のほか府中(東京都府中市)・横山・八日市(ともに八王子市)・本町田・原町田(ともに町田市)・拝島(昭島市)・五日市(あきる野市)・平井(日の出町)・青梅(青梅市)などがあるが、これらがすべて戦国期までさかのぼれるかは不明である。府中では室町時代に六所宮の門前に市がたち、近世には馬市が開かれていることから、戦国期にも六斎市が開かれていたと思われる。北条氏の印判状によれば、世田谷新宿(世田谷区)・高萩新宿(埼玉県日高市)・白子新宿(埼玉県和光市)など、新宿とされたところで六斎市が開かれていたことに注目できる。新宿とは、ことに天正期に進展した有力百姓や町人による地域開発の拠点であり、北条氏からは新たな伝馬役負担地としてその繁栄が期待され、六斎市の開催が要請された町場のことである(池上一九八四)。関戸でも天正十三年(一五八五)に有山氏によって中河原のうち正戒塚に新宿が立てられている(③、資一―807)。

図5―85 交通路・市場概略図

 北条領国の六斎市は、かつてそれを撰銭令と関連付けて、北条氏が年貢を百姓に精銭(割れや摩耗等のない精良な銭)で納めさせるため、百姓に精銭獲得の場を与えたもので、精銭納の崩壊とともにその存在理由を失って近世初頭には消滅すると説明された(中丸一九五九)。ところが、北条領国では永禄・元亀頃(一五五八~七三)に精銭納から米穀納に転換され、新宿開設に伴う六斎市の場合、それより時代の降る天正期にたてられているのである。そのため、六斎市は北条氏が収取した年貢を商品として領内に再投下するための市場整備であり、米穀納に対応する経済政策であったとし、数キロ間隔でつらなる五か所の六斎市が、一か月間毎日ちがった日に開かれることで一セットの経済単位を構成し、その経済単位がいくつか合わさって各支城領単位の領域経済圏が成立しているとの説がだされた(藤木一九六五)。これは有力な見解であったが、それにたいしてもいくつもの異論が提起されており、今にいたるまで決定的な見解はみられない。六斎市の多くは、市場内での喧嘩口論や押買い狼藉(ろうぜき)、借銭・借米などの債権取りたてが禁止され、諸役を免除された「楽市」であった。勝俣鎮夫氏は、楽市という場が神仏の支配する聖域として本来的にそれらの特権を諸権力から自立して保持していたと述べた上で、その存続が諸権力から保証されたことは、逆に権力の統制下に楽市がおかれる第一歩であったという注目すべき見解を提起している(勝俣一九七七)。
 関戸郷の六斎市で免除された濁酒役と塩合物役は、六斎市での売買の際に北条氏から賦課されたものであろう。元亀二年の武蔵国松山本郷(埼玉県東松山市)には濁酒を販売する家があったことが知られる。相模国藤沢宿(神奈川県藤沢市)の木工助は永禄四年閏三月二十八日に新規の商売の開始を北条氏に申し出て、酒役の免除と塩合物役の二か年免除を獲得している。酒役については、鎌倉府が関戸や品川など鎌倉府の直轄領であった町場に賦課した酒壷役を北条氏が引き継いで、その経済基盤の一つとしたものという見解がある(久保一九九五)。
 では具体的に、関戸郷ではどこで六斎市が開かれたのであろうか。関戸村名主相沢伴主(源左衛門)が天保七年(一八三六)までに著したとされる『関戸旧記』の写本(比留間一九八三)では、沓切坂の西南、現在の多摩市役所に比定される位置に「古市場」といわれる地があることをあげ、当時すでに相沢氏が所蔵していた②甲子(永禄七年)九月二十日の北条氏政印判状写(資一―801)にみえる六斎市と関連付けている。寛文三年(一六六三)三月吉日の貝取村の検地帳(伊野英三家文書)には「古市ば道」と記載があることから、この頃には市場跡となっていたことがわかる。菊池山哉氏も「古市場」で市が開かれていたという伝承を取り上げ、そこが永山・瓜生・貝取・乞田・落合・寺方・落川・原関戸などの集落の中心に位置するとして、その伝承を正しいものとしている(菊池一九六七)。そのほか、『新編武蔵国風土記稿』一之宮村の項には、村の西側に「市場口」という小名があることが記され、小野神社門前で市が立った名残であろうとしている。『新編武蔵国風土記稿』で有山屋敷があったとされる有山は、関戸宿と小野神社門前市とのほぼ中間点にあたり、また主要道や大栗川にも程近く、水陸交通の要地といえる場所である。有山氏は天正十三年には中河原の開発をすすめ新宿を立てている(③、資一―807)。文禄三年(一五九四)十月十一日の「武州多西郡関戸郷御縄打帳」(〈史〉佐伯遵家文書1)九冊のうち現存する一冊によれば、有山氏の所持する田畑が大栗・大くり(栗)はた・ゑこた(ご田)・川はた・川ふち・いしなた(石灘)など、大栗川から多摩川にかけての地域に一四町九反余に渡って展開していたことが確認できる。鎌倉街道の支線として有山屋敷のあった有山から寺方を経由し貝取にぬける道が戦国期には広く利用されていたと推測されることから(菊池一九六七)、有山氏が宿と市場それぞれに目を配る上で好都合であった地に屋敷を構え、その周辺地域の開発を天正期にすすめていたという推測は成り立たないだろうか。
  池上裕子「伝馬役と新宿」『戦国史研究』八、一九八四年

  中丸和伯「後北条氏の発展と商業」『歴史学研究』二二九、一九五九年、佐脇栄智編『戦国大名論集8後北条氏の研究』一九八三年に再録

  藤木久志「大名領国の経済構造」『日本経済史大系2中世』一九六五年、同氏『戦国社会史論』一九七四年に再録

  勝俣鎮夫「楽市場と楽市令」『論集中世の窓』一九七七年、同氏『戦国法成立史論』一九七九年に再録

  久保健一郎「戦国期の品川と後北条氏」『人民の歴史学』一二五、一九九五年

  比留間一郎「資料紹介『関戸旧記』」『郷土たま』二、一九八三年

  菊池山哉『東国の歴史と史跡』一九六七年