伝馬を公用で使用する北条氏の使者・職人などには、永禄以降、馬の形象を二重郭の上部に形どった印文「常調」の印章が朱で捺された伝馬手形が発給された。領国一円の交通に関わる「常調」の伝馬手形を発する権限は北条氏当主に属していた(下山一九七一)。伝馬手形には使用者・使用目的・馬の数・発行年月日などが記され、「何処より何処まで宿中」という形で使用区間が示された。文中に「一里一銭を除くべし」とある場合は無賃で使用することができた。一里は六町(約六五五メートル)の距離である。使用者は伝馬手形を宿で提示して伝馬を使用した。北条氏の城郭修築や武器製造に携わった職人の子孫宅に伝馬手形が多く伝来していることからすれば、伝馬手形は使用後も破棄されることがなく、使用者の処分に任されていたと思われる。
図5―86 北条氏伝馬手形
永禄五年と推定される戌年の六月四日、北条氏照の滝山・八王子領に属す五日市谷の平井郷(日の出町)の伝馬奉行に、氏政の虎印判状(田中芳重家文書)による「伝馬定」が宛てられている。平井郷は青梅や府中から甲斐方面へ抜ける交通の要衝である。伝馬定は、①無賃の伝馬は一日三疋(上様通過時は一〇疋)とすること、②有賃の場合は馬一疋につき一里一銭半と通常の一・五倍とすること、③飛脚などは「一里一銭を除くべし」と記載のある伝馬手形を所持しているので文言をよく確認すること、という三か条からなり、さらに駄賃を払わず伝馬を要求する者はその身を拘束して小田原城まで訴え出ることが保証されている。その直後の同月二十一日には、氏照によって、平井郷はすぐ西側の伊那(奈)郷(あきる野市)と隔番で伝馬役をつとめることとされた。永禄七年には関戸宿の伝馬役も二か年軽減されている。こうした措置は、永禄三年以降、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵し、青梅を中心に奥多摩渓谷一帯を支配した三田氏も上杉氏に従って北条氏に対抗するなど、武蔵国から上野国南部にかけて争奪戦が展開する中で、使者や軍勢、物資の移送などで宿に過重な伝馬負担が強いられた結果、衰退した宿から復興の訴えがだされたことに対応したものと考えられる。池上裕子氏は、甲子(永禄七年)九月二十日に北条氏政によって関戸に示された政策の二つの柱、すなわち伝馬役の一時的な軽減、役銭免除・六斎市日の公示による商人保護・宿の発展策は、北条氏が恒常的・永続的に必要伝馬数を供給しうる宿をつくりだすためにとった政策で、その後の伝馬政策の基本線を形づくるものであったと評価している(池上一九八四)。
下山治久「後北条氏の伝馬制度」『年報後北条氏研究』創刊号、一九七一年、佐脇栄智編『戦国大名論集8 後北条氏の研究』一九八三年に再録
池上裕子「伝馬役と新宿」『戦国史研究』八、一九八四年