熊野信仰

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関戸宿の問屋には、商人のみならず寺社や霊場に参詣する道者(どうしゃ)も宿泊した。中世には、熊野、伊勢、富士山などへの参詣が盛んに行われていたが、ここでは多摩郡一帯にひろくみられた熊野信仰に注目してみたい。多摩市域に関しては、関戸の熊野社と、和田に熊野三所権現・四所明神・五所王子をまつった十二所権現(資一―721・資二社経20)がある。

図5―87 関戸の熊野神社

 熊野灘にのぞむ紀伊半島の南部に熊野本宮・熊野新宮・熊野那智(和歌山県本宮町・新宮市・那智勝浦町)の熊野三社がある。この地は古くから山岳宗教の霊地であったが、浄土信仰が高まった平安時代には、観音菩薩の補陀落(ふだらく)浄土への入口とされ、皇族や貴族の熊野詣(もうで)が盛んに行われた。参詣路は伊勢路・紀伊路とも難路であり、参詣者は先達(せんだつ)に導かれて旅をした。先達はその多くが熊野で修業を積んだ修験者(しゅげんじゃ)(山伏)であって、参詣者の精進潔斎(しょうじんけっさい)や宿泊などの世話をした。現地では三社に所属する御師(おし)が参詣者の祈祷(きとう)・宿泊などを取り計らった。当初は参詣時だけの一時的な関係であった御師と参詣者は、やがて御師を師とし参詣者を檀那(だんな)とする恒常的な師檀関係を結ぶようになった。鎌倉時代には東国の武士も熊野に詣でるようになり、一門が一括して檀那として掌握された。室町時代になると領主などを通して百姓も檀那となるようになり、檀那の掌握も郡・荘・郷村などの地域単位で行われるようになった。御師は檀那からの祈祷料・宿泊料などを財産化し、檀那職の相続・譲渡・売買が盛んに行われるようになった。
 熊野那智の執行実報院(米良氏)と社家廊之坊(潮崎氏)に伝来した数多くの檀那売券からは、多摩市周辺の檀那職売買として次のような事例が知られる。
 米良氏に伝来した応仁二年(一四六八)十一月二十四日の檀那売券によれば、熊野那智の御師城慶坊あくり女が、日野市域の平山郷を本拠とする武蔵国平山一族の檀那職を四貫五〇〇文で売却している。
 同じく米良氏に伝来した文亀元年(一五〇一)三月二十日の檀那売券では、熊野那智の御師生馬又三郎が、武蔵国橘樹郡小沢(稲城市・川崎市)の小田一族の檀那職を七〇〇文で実報院に売却している(資一―773)。
 潮崎氏に伝来した文亀四(永正元)年(一五〇四)六月十日の檀那売券では、紀伊国築地(和歌山県那智勝浦町)の幸ます丸が、武蔵国の門善と半沢の門弟である半沢覚円坊・横山(八王子市)の三位・覚地坊・めいはう殿、三田の達賢坊、宅部(やけべ)(東大和市)の円達坊らの先達の引く檀那を、門善の福寿兄弟引を除き、三貫文で売却している(資一―774)。
 文亀四(永正元)年の売券にみえる半沢は、熊野三山検校を兼帯した京都の聖護院門跡道興が訪れた半沢と同じ場所であろう(資一―766)。道興は文明十八年(一四八六)六月から北陸・関東の修験者を聖護院に組織するための旅をしているが、その紀行文『廻国雑記』によれば、相模大山寺(神奈川県伊勢原市)と日向寺に宿泊した後、熊野堂(神奈川県厚木市ヵ)を経て、半沢に泊まり、関戸の霞の関・恋が窪(国分寺市)・掘兼(埼玉県狭山市)と鎌倉街道を北上し、入間川を渡って笹井(狭山市)の観音堂に至っている。道興は笹井の観音堂など熊野先達の坊にしばしば泊まっていることから、半沢での宿泊先も覚円坊であったと思われる。覚円坊の位置は定かでないが、八王子市域の由井郷(資一―774註)か、町田市域の図師(町田市一九七四)に比定される。覚円坊は文禄二年(一五九三)五月十三日の聖護院門跡御教書(石川允家文書)で「武州多西郡想郷之衆分同行中檀那共」を安堵されており、それは先師が天正十八年に八王子城で討死した際に手継証文を焼失したという申請に応えて発給されたものであることから、覚円坊が戦国期すでに聖護院に組織された多西郡の有力修験であったことが知られる。『新編武蔵国風土記稿』下一分方村の項に収められた相即寺の過去帳には半沢覚源律師(法名久誉林体)が八王子城戦死者一一四名余の筆頭にあげられていることから、先師とは覚源であったと思われる。覚円坊は近世に木曽村(町田市)に移っている。
 実報院と廊之坊はそれぞれ近世初頭に、「諸国旦那之大帳」(米良文書)、慶長四年(一五九九)五月九日「廊之坊分旦那目安」(潮崎稜威主文書)を作成して、全国に所持した壇那の名字や所在地を国別にまとめている。「諸国旦那之大帳」に「一半沢 覚円坊・弥田(みた)の達賢坊・やけ(宅)部の円達坊引一円」とあることから、半沢覚円坊らの先達が引く檀那は実報院が把握していたことが知られる。「廊之坊分旦那目安」には、府中一円・ゆい(由井)の庄一円・ゆき(由木)七郷・高畠(幡)三郷・瀧(滝)山七郷など多摩川中流域の諸郷と思われる地域とともに関戸七郷がみえることから、多摩市域の檀那は廊之坊に掌握されていたことがわかる。
 熊野先達などの修験者は、その移動性と情報力が商人から期待され、また、市場開設にあたって市神(市の守護神)を勧請したことなどから、商品流通に深く関わる存在であったことが知られている。伊勢・熊野と結ばれた太平洋水運の東国側の上陸点である品川湊・神奈川湊は彼らの有力な活動の舞台であり、熊野出身の品川の有徳人(うとくにん)鈴木道胤は熊野御師と密接に結びついていた(永原一九九一)。修験者が市場・宿場と密接な関係をもっていたことは、天正十六年の下総国赤岩新宿(埼玉県松伏町)の開発と市の開設にあたっての市神勧請が修験大泉坊に期待されたことや(新井一九九三)、鎌倉街道の越辺(おっぺ)川渡河点と推定される武蔵国苦林宿(埼玉県毛呂山町)に熊野那智へ檀那を導く先達の大夫阿闍梨(あじゃり)・伊勢阿闍梨がいたこと(宮瀧一九九四)などからもうかがえる。
 そうした視点からすれば、鎌倉街道の多摩川渡河地点に位置し、六斎市が開催され、新宿が立てられた関戸郷に熊野社が勧請され、近世には関戸村の鎮守となっていることに注目できる。関戸の熊野社は勧請年代が不明であり、さらに史料も不足しているため、勧請された理由を右に述べたようなことから直ちに説明はできないが、今後の課題として提示しておきたい。
  町田市史編纂委員会『町田市史』上巻、一九七四年

  永原慶二「熊野・伊勢商人と中世の東国」小川信先生古希記念論集『日本中世政治社会の研究』一九九一年、同氏『室町戦国の社会 商業・貨幣・交通』一九九二年に再録

  新井浩文「戦国期利根川流域における領概念について―修験との関係から―」地方史研究協議会編『河川をめぐる歴史像―境界と交流―』一九九三年

  宮瀧交二「中世『鎌倉街道』の村と職人」網野善彦・石井進編『中世の風景を読む2 都市鎌倉と坂東の海に暮らす』一九九四年