十六世紀の多摩川中流域においても史料中に「村」の存在が散見されるようになっている。まずは多摩川中流右岸の村を検出してみよう。永禄十年(一五六七)十月十八日の高幡不動座敷次第写・武蔵国多摩郡新井方絵図(資一―802・803)には、平山村・平村・田之口村・三沢村・河内村・落河村・北原村・豊田村・堀之内村・谷村が見られる。吉富郷内には、中河原村・鹿子嶋村(青柳村?)・乞田村・勝河村(落川村?)が確認される。これらの村落が自立してきたことに対応して、領主支配も村単位で行なわれるようになってきた。たとえば関戸郷内の乞田村・勝河村は、高麗郡の山口重明に宛行われている(資一―811・813)。また、北条氏発給文書の宛所に「百姓中」とある文書があるのもこの傾向を示すものであろう。
図5―88 武蔵国多摩郡新井方絵図『家伝史料』巻6(資一―803)
ただし、中世において村が自立してきたからといって完全にそれまでの枠組みが崩れさった訳ではなく、郷としての枠組みを保持していた地域もあった。天正十八年(一五九〇)四月から五月にかけて、関東に侵攻してきた豊臣秀吉から武蔵国各地に平和を保障する禁制が発給されているが、これを見ると関戸郷・由木郷は郷単位で禁制を受けている(資一―814・818)。これに対して、三沢村・落川村は村単位で禁制を受けている(資一―816・817)。また、高幡村と河辺七か村は荘園公領制に見られない新たな枠組みで禁制を受けていることも注目される(資一―815)。