図5―89 松田憲秀印判状写『武州文書』(資一―810)
天正十四年三月十一日、関戸郷の又代官であった森岡某は、関戸郷の支配において何らかの「非分」を働いた。関戸郷中の百姓等は、森岡の主人である松田憲秀に対して訴状を提出した。この動きに驚いた森岡は、関戸郷から逃亡したが松田から成敗を受けたらしい。そして、松田は関戸郷への又代官派遣をやめて、関戸郷の年貢負担を明確に示し、関戸郷六人百姓に所務を預けたのである。これによって、年貢の収納実務まで百姓が請負う自治が成立したのである。
この時定められた関戸郷の年貢は、松田氏に四五二貫八六文、深谷図書助等の給人に九八貫五四八文、合計五五〇貫六三四文を送ることが定められ、さらに霞の関の関銭五貫文を有山源衛門が請負うよう定められていた。この文書は前欠で、関戸郷に宛行われている給人の全ては判明しないが、斉木神二郎は市内東寺方寿徳寺の開基でもあった佐伯氏に比定される。また、相沢屋敷は近世関戸村の名主であった相沢氏のことであろう。小林神衛門については、市内落合に小林姓が見られるが関連は解らない。尚、最近発見された乞田吉祥院所蔵の天文十三年(一五四四)聖観音菩薩像像内銘には、「佐伯豊後」「小林五郎兵□」の記載がある。この聖観音菩薩像は、もと乞田村大貝戸の観音堂に納められていたものと考えられる。関戸郷の自治は、これらの年貢を支払う限りにおいて成立していたのであり、年貢納入を怠ると百姓六人への成敗が定められていた。
関戸郷の所務を任せられた有山源衛門以下六人の百姓の存在は、『当社記録』に見る「関戸六ケ村」の代表者を示すものとして考えられよう。有山源衛門は、有山源右衛門とも記され、近世初頭においては関戸村の名主を勤めていた。しかし、『新編武蔵国風土記稿』によれば、その子息新右衛門の代に絶家したという。これは、近世初頭関戸郷を領していた山角氏が大幅に所領を削減された件に連動していたのではあるまいか。なお、今まで有山源右衛門の実名は知られなかったが、杉田卓三家文書の関戸村役人伊右衛門覚書に引用されている元和三年(一六一七)四月付けの口上書の署名に「有山源右衛門 元貞(花押影)」とあり、源右衛門の実名が元貞であったことが推測されるのである(資二社経151)。ただし、有山源右衛門の初見資料から五〇年以上もたっているので、源右衛門は中世の有山氏当主の通称であって、源右衛門あるいは源衛門の名前で複数の人物が史料中に現れていたのであろう。また、小磯氏は乞田に、塩沢氏は寺方に見える姓である。恐らく、この六人の百姓は十六世紀の関戸六か村においてそれぞれの名主的存在であったことは間違いなかろう。
ところで、荘郷の枠組みからさらに小さな村単位のつながりを強めつつあった十六世紀の村落内における住民の結集は、どのような姿を持っていたのであろうか。一般に中世の民衆が結集する場として選ぶのは、寺社などの宗教施設である場合が多い。則竹雄一氏は、北条領国下の棟札(むなふだ)の記載を分析し、戦国期になって神社の棟札から百姓名が見いだされることにより百姓層の成長と、その表出としての鎮守社の成立を指摘されている(則竹一九九三)。多摩市内において戦国期の棟札は発見されていないが、近世前期の天和二年(一六八二)九月乞田村八幡宮棟札写が有山昭夫家文書の中に残されている(資二文化寺社四八〇頁)。そこには、乞田村内の上乞田・下乞田・貝取・宇龍(瓜生)・青木葉の百姓一〇〇名の名が連ねられている。この史料は近世初頭のものではあるが、十六世紀の百姓結集の様相を推測させるものである。また、神社における地域的な祭祀集団を宮座と呼ぶが、寺沢史家文書の中には、元和四年(一六一八)十一月十一日の座鋪覚帳写がある(資二社経70)。この史料には左座と右座に分れて落合村の人名が書き並べられている。おそらく落合の白山社における宮座(みやざ)の座順を示したものであろう。『新編武蔵国風土記稿』には「元和四年霜月十日」の棟札が納められていることが記されている。なお、落合の東福寺には文政十年(一八二八)に書写された享保八年(一七二三)八月十九日の「白山宮御棟札写」と題する元和四年の座鋪覚帳写とほぼ同内容の史料が残されている。次も近世の史料になるが、元禄十一年(一六九八)七月の落合村五人組仕置帳(資二社経45)には、「附何事によらす神水を飲、誓詞を書、一味同心いたし徒党かましき儀、一切不仕事」と一味神水(いちみしんすい)の作法が記されている。この作法は中世に始められたとされる百姓結集の一様式で、近世初頭の落合村住民には中世において行なわれていた一味神水の記憶が残っていたのではないだろうか。
図5―90 落合白山神社
則竹雄一「棟札にみる後北条領国下の地頭と村落」『大名領国を歩く』一九九三年