関戸郷の開発と生産

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右に述べてきたように自立の度合いを進めてきた十六世紀の村落における生活を支えるものとして生産の問題を考えなければならない。関戸郷の主要耕地は、多摩川が造った沖積地に展開していたと考えられるが、多摩川本流を初め浅川・大栗川・乞田川などの小河川が複雑に入り交じり、洪水の影響を受けやすい地形をしていた。このため、河川敷に近くなるほど水害と再開発を繰り返さなければならない不安定な農業経営を強いられた。関戸郷内の中河原村にもその再開発に関する史料がある(資一―807)。天正十三年(一五八五)三月二十四日、関戸郷代官松田憲秀は、有山源右衛門の申請に応じて荒原を開発することを許可した。その際に松田は、この荒原を「七年荒野ニ定」としている、それは七年の間年貢を免除する特典を認めたものである。つまり有山は、既に行なっていた中河原の開発に対して年貢免除を得るために開発申請を行なったのである。なお、中河原の正戒塚は『新編武蔵国風土記稿』によれば、中河原の東に性戒塚という塚があったが、洪水により流出し小名(こな)として残っているという。
 北条氏領国下の新宿設置は、伝馬役負担地の創出という軍事的色彩を帯びており、その経済基盤として六斎市(ろくさいいち)の開設を伴うこともあったが(池上一九八四)、関戸郷の場合は、既に天文二十四年(一五五五)正月十一日関戸宿に伝馬役を課せられており、至近距離にある中河原に伝馬役賦課に伴う新宿設置があったとは考えられない。従って、中河原正戒塚の新宿設置は、開発の労働力を集める拠点としてのものであったのであろう。
 十六世紀の関戸郷には農耕の他に馬の生産も行なわれていたらしい。江戸時代の幕臣で文人であった大田南畝が編纂した『家伝史料』巻九に収められている『富沢家記録』には、「小田原勢馬飼場之陣屋・赤坂ケ谷・仏道建籠る」とあり、『連光寺村誌』には「北条氏此辺ノ山野ヲ以テ牧場トナシ軍馬ヲ飼養ス、陣屋ヲ構ヘ牧士ヲ置ク、是ヲ赤坂駒飼場ノ陣屋ト称ス」とある(福田一九八六)。これらの史料の信憑性には微妙なものがあるが、関戸の対岸にある連光寺の赤坂に馬牧があったというのである。府中六所宮の馬市の存在や関戸郷の伝馬役賦課の背景に、馬の生産地がこれらの周縁で行なわれた可能性があるのでここに紹介する。
 多摩川の上・中流域には、優良な木材生産地があった。多摩川流域にはその資源をもとに各種の建築が行なわれていたことが推測されるが、天文十五年(一五四六)の世田谷八幡宮造営、天文十七年の池上本門寺仁王像修造に「由木内匠助」なる人物が関わっていたことが知られる(資一―784・787)。由木内匠助が番匠として多摩川流域で活動していたことは間違いなかろう。特に世田谷八幡の供養導師に鶴岡八幡宮供僧が就いていたことから、この造営事業に鶴岡社が関わっていたことが注目される。この造営には鶴岡社が編成していた番匠が動員されていたのではないだろうか。そうであるとすれば、由木という地名が、吉富郷近隣の大栗川上流の広域地名であったことと、吉富郷が鶴岡八幡宮領であったこともあわせて、由木内匠助が吉富郷ないしは近隣の住民であった可能性がある。
  池上裕子「伝馬役と新宿」『戦国史研究』八、一九八四年

  福田アジオ「近世前期南関東における家の成立と地親類」『国立歴史民俗博物館研究報告』一一、一九八六年