多摩郡・入間郡・高麗郡一帯は、北条氏領国に組み込まれる以前は、山内上杉氏の重臣で滝山城主大石定久、勝沼城主三田綱秀らが支配した地域であった。大石氏については二章二節一項を参照して頂きたいが、十六世紀半ば頃の当主は定久である。『新編武蔵国風土記稿』下柚木村の項に所載の「大石系図」によれば、定久は延徳三年(一四九一)三月二十三日の出生で、大永七年(一五二七)十二月一日に定重から家督を相続し、氏照を養子に迎えてからは武蔵戸倉城(あきる野市)に蟄居(ちっきょ)している。入道して真月斎と号し、天文十八年十月七日に没したという。定久の発給文書は検討を要するものを含めて九通知られ、そこから多摩郡・入間郡を中心に相模座間郷(神奈川県座間市)を支配していたことがわかる(福生市一九八七)。中に天文二十一年八月十九日の判物があることから、系図の記載とは異なり、この年までの生存が確認できる。一方、三田氏は、平将門の子孫を自称し、連歌師宗長の紀行文『東路の津登』に「(永正六年)八月十一日、むさし(武蔵)の国かつぬま(勝沼)という処に至りぬ、三田弾正忠氏宗此処の領主たり」とあるように、氏宗・政定・綱秀と三代にわたって奥多摩渓谷の出口を押さえる勝沼城(青梅市)に拠り、入間郡・高麗郡にも所領を有していた。現在の青梅市から埼玉県日高市にかけての地域で、当時は「三田谷」といわれていた。
天文十五年の河越合戦に勝利した北条氏は、弘治元年には河越城・松山城を中心として入間郡・比企郡・高麗郡一帯に検地を行い、武蔵国北・中部を領国に組み込んだが、大石氏については弘治年間の頃まで、三田氏については永禄四年の滅亡に至るまで、その支配をおさえることは難しかったものと思われる。北条氏が武蔵国支配をすすめる上で、大石・三田両勢力の制圧が次の課題となったのである。それはまず、多摩郡・入間郡の有力寺社の掌握から開始された。
天文二十年九月六日の大石定久判物(広徳寺文書)は、戸(留)津原・深沢・中野・窪(小宮久保カ)・押楯(折立カ)・須賀尾(菅生)・小和田(以上、あきる野市)、平井(日の出町)など秋川流域に散在する広徳寺(あきる野市)の寺領九か所を安堵したものであるが、文書の袖には北条氏当主のみが捺印しうる虎の朱印も捺されている文書である。これは多摩郡域に現存する虎印判状の初見でもあり、大石氏の秋川流域に対する支配が北条氏の制限をうけるようになったことを示すものである。北野天神社(埼玉県所沢市)は、天文十一年二月十五日に大石定久から神主職を安堵されているが、弘治元年四月三日になると氏康から神事の際の喧嘩口論禁止等三か条からなる禁制を得ている。弘治三年十一月二十七日には、多摩郡・入間郡の有力寺社に棟別を免除する氏康の虎印判状がいっせいに発給された。高安寺(府中市)・西蓮寺・高乗寺(ともに八王子市)・広徳寺・出雲祝神社(埼玉県入間市)に宛てられた五通が現存しているが、いずれも大石氏の支配地域に属す寺社である。弘治年間には北条氏が大石氏の支配を排除し、これら有力寺社を直接掌握したことを示すものであり、以後これらの地域は本城主にかわって氏照の支配が展開していくことになる。
大石氏の所領とその家臣団は、氏照が定久の養子となってその家督を継承したことで完全に北条氏に取り込まれた。氏照が大石氏の養子となった時期について、大石系図は天文七年とするが、氏照の出生が天文九年から十一年であることから、その記載は誤りである。永禄四年と推定される三月三日の加藤駿河守宛て書状(加藤文書)には「大石源三氏照」と署名があるため、それ以前であることは確実だが、先に述べた鈴鹿明神社再興棟札では、まだ北条を名乗っているので、弘治二年五月二日以降、永禄四年三月三日までの間のこととわかる。
図5―91 北条氏略系図
北条氏照の初見文書は己未(永禄二年)十一月十日に、布施と横地の両名の奉行人が奉者となって、三島明神社(あきる野市)の宮本祢宜職(ねぎしき)を六郎太郎に安堵したもので、印文「如意成就」の朱印状(図5―92)である。横地と布施は、永禄四年と推定される酉三月六日に福生郷(福生市)の代官・百姓中に宛てた制札(石川文書)の署名から、横地監物丞、布施兵庫大夫であったことがわかる。横地監物丞は実名を吉信といい、『北条氏所領役帳』では馬廻衆に名を連ねている。馬廻衆は北条氏当主の親衛隊というべき存在で譜代直臣によって構成されていた。布施も一族が馬廻衆や小田原衆にみえることから譜代直臣の出身と思われる。若い氏照が滝山・八王子領の支配を開始するにあたって、氏康は譜代直臣を側近として送り込み、彼らが中心となって氏照の城領支配を遂行していったのである。さきの福生郷の制札にはもう一人、大石氏一族と思われる大石左馬助が署名しているが、これは大石氏一族を奉行人に登用することで大石氏旧臣の反発を和(やわら)げることをねらったものであろう。
図5―92 北条氏照印判状(三島明神社文書)
氏照はその書状に「大石源三氏照」「平氏照」「北条源三氏照」「北条陸奥守氏照」などと、時期と立場によって異なる署名をしているが、永禄十一年と推定される十二月二十四日の本庄繁長書状写(歴代古案三)の宛所には「由井源三殿」と記されている。氏照が由井(比)姓を名乗ったのは、応永八年(一四〇一)に「武蔵国由井本郷大畑村三分方并びに木藤次屋敷」(資一―707)、寛正三年(一四六二)に「遠江国(武蔵国の誤り)由井本郷大畑村三分方)(資一―760)を所領としていた安芸国志芳庄地頭天野氏の縁戚にあたり、戦国期に由井本郷を知行したと思われる由比源三郎の名跡をも、大石氏の養子となる前に氏照が継承していたためといわれる(奥野一九六四)。しかし、ここでは、由井源三とは「中将源三」・「源三左衛門尉」・「源三」などと名乗った大石氏の当主をさすという加藤哲氏の見解に従いたい(加藤一九八八)。由比氏は鎌倉時代には源三郎を名乗ったと推測されるものの(資一―647)、戦国期の史料に由比氏はまったく登場しないし、氏照自身が由井を名乗った確証もないからである。この点に関連して注目されるのは、氏照による油井領の継承である。油井領とは、久良岐郡富(戸)部臨江寺分(横浜市)七二貫四二三文、小山田庄の内小野地(路)(町田市)五〇貫文、相模東郡の溝上下(神奈川県相模原市)・座間(座間市)・粟飯(相)原四か村(相模原市・町田市)・落合(神奈川県綾瀬市)、小山田(町田市)の内四か村、である(資一―798)。座間については、永禄五年八月十五日に座間の鍛冶鈴木弥五郎が屋敷を安堵されるかわりに公方御用を氏照から命じられていることから、永禄五年には氏照所領となっていることが判明する。永禄十一年以降、富(戸)部、小野路(資一―808)、小山田にも氏照の印判状が発給されていることから、油井領が氏照の所領となっていることは確実である。ところが、座間の鍛冶某中務丞(鈴木弥五郎の縁者と思われる)には大石定久の判物が発給されていることから、座間がかつて大石氏所領であったことがわかる。弘治二年には座間の鈴鹿明神社再興棟札に大檀那「北条藤菊丸」が登場することから、この時には座間は氏照の所領となっていたのであろう。また、戸部郷は天文十二年二月以前に北条氏直轄領となっている。油井領を由比氏の所領であったとする見解もあるが、由比氏が座間などを知行した所見がないことからも、油井領は、もと大石定久の所領であったものと、相模・武蔵の制圧の過程で北条氏の支配下に属した地域の一部を、氏照が継承したものと考えられる。他国衆に記載されたのは、いまだ氏照の大石旧領支配が十分ではなく、旧大石氏家臣団との確執があったためとする加藤氏の説が自然であろう。
加藤哲「『油井領』の性格」『戦国史研究』一六、一九八八年
福生市史編さん委員会『福生市史資料編』中世寺社、一九八七年
奥野高広「由比源三郎と北条氏照」『府中市史史料集』五、一九六四年