景虎は天文二十一年についで永禄二年に再度上洛し、将軍足利義輝から憲政の関東支配に助力せよとの御内書をえて、関東進攻の大義名分を整えた。関東侵攻の目的は、関東管領の権威を復活し、上杉氏の守護領国である武蔵・上野の失地回復をはかることにあったが、信玄の娘が氏政に嫁した天文二十三年十二月以降、信玄と同盟関係にある北条氏を攻撃することで、信玄の上野進攻を阻止するねらいもあった(群馬県一九八九)。景虎は、常陸の佐竹氏や安房の里見氏らの要請に応えて、永録三年八月に上杉憲政を奉じて関東に出兵し、三国峠を越え、箕輪(みのわ)長野氏の上野国厩橋(まやばし)城(群馬県前橋市)を接収し、ここに越年して、二月小田原城を包囲した。これに対して北条氏は徹底した籠城策をとったため、謙信は閏三月帰途につき、途中鶴岡八幡宮に拝賀して上杉憲政から上杉氏の名跡と関東管領職を譲られ、上杉政虎(のち輝虎。入道して謙信と号す。以下上杉謙信に統一して記述)と改名した。近世の戦記物『北条記』には、謙信は帰路、府中の六所宮にも参詣したとの記述があり、これが確かだとすれば、鎌倉街道上道が謙信の引き上げルートとなる。これ以降、謙信は毎年のように北関東の反北条勢力を結集し、冬から初夏にかけての関東出兵を繰り返す。その出陣は十数回に及ぶが、武蔵・相模に深く侵攻したのは永禄三~四年の出兵のみで、以後は上野周辺や一時的な常陸・下総への出陣にとどまっている。永禄九年閏八月頃には関東出兵の前線基地である厩橋城を守備していた謙信腹心の北条(きたじょう)高広をはじめ、金山城(群馬県太田市)の由良成繁など東上野の武士たちが北条方につくという状況となった。その直後の永禄九年九月には、武田信玄が西上野の要地である箕輪城(群馬県箕郷町)を攻略して、利根川以西の西上野の支配をすすめた。永禄十一年末からの越相同盟交渉に謙信が応じる前提にはこうした状況があったのである。藤木久志氏は謙信の関東出兵が冬から春にかけての穀物の端境期・農閑期に行われ、とりわけ永禄三~四年の出兵が凶作・飢饉・疫病のさなかであったことに注目し、戦国期の人々にとって戦場が「口減らし」の場であり、物取り・奴隷狩りによる稼ぎ場であったと指摘している(藤木一九九五)。
永禄四年一月から三月までの作成と推測される「関東幕注文」(上杉文書)は、上杉氏の関東進攻に来属した上野・下野・武蔵・常陸・安房・上総・下総の武士二五五名の名前とその陣幕紋を衆単位に記載したものである(池上一九八一)。二三枚の紙に書き継がれたものだが、四紙と五紙の間に脱落があるため、上野の武士の記載が一部欠けていると推測されている(群馬県一九八九)。武蔵国からは忍城主成田長泰、岩付城主太田資正、羽生城主広田直繁・木戸忠朝兄弟、深谷城主上杉憲盛、勝沼城主三田綱秀らをはじめとする五〇名の武士が謙信に従っている。ここでは三田綱秀以下、毛呂・岡部・平山・諸岡・賀沼修理亮ら六名の「勝沼衆」に注目したい。
三田氏は綱秀の父政定の頃には北条氏の勢力下にあったようである。大永四年(一五二四)十月に武蔵北西部の毛呂城(埼玉県毛呂山町)が上杉憲房に攻撃され、北条氏が和議によって城を明け渡した際、氏綱は勝沼に滞在している。享禄四年(一五三一)七月には、政定は小田原城に滞在して、連歌師宗長と交流している。河越合戦後、北条氏への服属的な立場が決定的となるが、なお北条氏は三田氏本領までは深く介入できなかったものと思われる。
綱秀は『北条氏所領役帳』では他国衆という半独立的な立場に位置付けられ、五〇七貫九〇〇文他を知行している。このうち相模西郡酒匂郷(神奈川県小田原市)の三〇七貫九〇〇文をどのように考えるかで理解は異なってくるが、北条氏は河越合戦後も三田氏本領に検地を実施することは難しかったものと思われる。何故なら、武蔵の所領のうち、入東郡の上奥泉(富ヵ)(埼玉県狭山市ヵ)・三木村(狭山市か埼玉県入間市)、高麗郡の河崎(埼玉県飯能市)・大谷沢・平沢・にれ(楡)の木(以上、埼玉県日高市)の貫高は、八〇貫・二〇貫・二五貫・二五貫・三五貫・一五貫と端数のないことから綱秀の申告によるものと思われ、このほかの高麗郡の広瀬・篠(笹)井(ともに狭山市)・横手郷・賀(鹿)山・馬引沢(以上、日高市)と河越筋の亀井郷(埼玉県鳩山町ヵ)には貫高がつけられていないからである。本拠地の奥多摩渓谷一帯は記載すらされていない。北条氏への軍役は貫高を基準に賦課されたから、貫高が記載されていないということは、三田氏の相対的な独立性を示すものといえる。ただし全く手付かずという訳ではなく、高麗郡の日懸(ひかけ)谷(中藤川一帯ヵ)・横手・大屋(谷)沢(ともに日高市)・羯皷船(勝小船)(飯能市)・蘆苅庭(あしかりば)(飯能市)など計五〇〇貫が、天文十八年に小田原衆の松田憲秀に宛行われていることは注意を要する。これらの地は「三田谷」と総称されており、明らかに綱秀の支配地から割譲されたものと考えられる。『北条氏所領役帳』では綱秀に続いて、境野越前守・師岡山城守・平山長寿・平山善九郎らが、高麗郡・入間郡に一六貫から四五貫程度の所領を知行している。師(諸)岡や平山は「関東幕注文」の勝沼衆にもみえる名字であり、彼らは綱秀の同心衆を構成する者たちであろう。三田氏にとって北条氏への服属は屈辱的で、上杉氏の関東進攻に応じて北条氏に軍事行動をおこすのだが、謙信の帰国後、綱秀は北条氏の攻撃にさらされることになる。綱秀は辛垣(からかい)城(青梅市)に立てこもって徹底抗戦したものの、永禄四年九月十一日以前には辛垣城を落とされ、滅亡をむかえる。翌五年の四月十日になると、日原川沿いの山村である一原(奥多摩町)の原嶋右京亮が「三田の時おろし付」という理由で、氏照から鷹狩に用いる鷹の新巣の探索と「す(巣)はい鷹」(鷂(はいたか)の子供カ)の上納を命じられている。永禄七年五月二十三日には、三田治部少輔・師岡采女佑以下の勝沼衆四一名とその手勢が清戸三番衆として滝ノ城(清瀬市)の十五日間の守備を氏照から命じられており、三田氏配下の武士が氏照のもとに再編されていることが確認できる。
群馬県史編さん委員会『群馬県史』通史編3中世、一九八九年
藤木久志『雑兵たちの戦場―中世の庸兵と奴隷狩り―』一九九五年
池上裕子「『関東幕注文』をめぐって」『新潟県史研究』一一、一九八一年