三増峠の戦い

764 ~ 766
天文二十一年十一月に今川義元の娘が信玄の嫡子義信に嫁し、天文二十三年七月氏康の娘が今川氏真に、同年十二月信玄の娘が氏政に嫁して成立した相模・甲斐・駿河の三国同盟も、永禄十一年十二月の武田信玄による今川氏真攻撃によって破綻する。この事態に北条氏は駿河に今川氏支援の軍勢を送り、また武田信玄との対抗上から一転して上杉謙信と結ぼうとする(越相同盟)。上杉氏との交渉は、氏康の筋書きによって、氏照が北条(きたじょう)高広を介した謙信重臣直江景綱とのルートで儀礼的な側面を担当し、具体的な実務は弟の氏邦が由良成繁を介した謙信申次山吉豊守とのルートで行なうという二方面から展開された(岩沢一九八四)。古河公方と関東管領の名跡・養子縁組・領土分割・反北条勢力の処置などをめぐって交渉は難航し、永禄十二年閏五月に一応の成立をみるものの、最終的な決着は永禄十三年三月まで持ちこされている。古河公方には、上杉氏は足利藤氏を推し、北条氏は氏綱の娘婿である義氏を立てた。結局、藤氏は永禄九年に没していることが判明し、古河公方に義氏がなる一方、関東管領には謙信がつくことでバランスがとられた。北条氏から謙信への養子には当初国増丸が予定されたが、最終的には氏秀(氏康七男)が入った。領土協定は、基本的には、上野は上杉氏、武蔵・相模・伊豆は北条氏に属することとされたが、武蔵の藤田・秩父・岩付・松山・成田・深谷・羽生の各領の帰属が問題となった。上杉氏は永禄三年の関東出兵時に上杉方に参陣した領主を基準に北条氏に割譲を要求し、北条氏は永禄十二年段階での現実の領有関係を主張した。一応は上杉方の主張が通ったが、その領有の実現は実力次第で、武蔵では羽生領・深谷領を確保しえたに過ぎなかった。反北条勢力の処置に関しては、下総の簗田領(関宿・水海・守屋の各領)が上杉方に帰属し、また上総・下総の領有をめぐって北条氏と対立していた里見氏には、下総一国の領有を里見氏に認め、その処置として千葉氏など北条方の領主から人質を預かるという案を謙信が提示したが、結局成立しなかった(市村一九九〇)。
 永禄十二年九月から十月にかけて、越相同盟の破棄、北条氏の駿河進攻の牽制をねらって、武田信玄による北条氏攻撃が行われる。信玄の軍勢は上野・信濃国境の碓氷峠から上野を抜けて氏邦の鉢形領に入り、九月十日には鉢形城で氏邦と交戦し、南進して滝山城を三日間攻撃している。近世初期の甲州流軍学書『甲陽軍鑑』によれば、信玄は多摩川を挟んで滝山城の対岸に位置する拝島(昭島市)に陣取り、また都留郡から小仏峠を越えて進撃してきた小山田信茂の別働隊が、小仏峠口の廿里(ととり)(八王子市)で待ち構えた横地・布施出羽の軍勢を打ち破った後、信玄の軍勢と合流した。信玄は武田勝頼を大将に任じ滝山城を攻めた。滝山城は三の曲輪(くるわ)まで陥落したが、氏照や諸岡山城らの奮戦により落城をまぬがれた。攻撃三日目の夜中に信玄は滝山を離れ、武相国境の杉山峠を越えて小田原城を攻めた。これに対して北条氏はまたも籠城策をとったため、長期化を恐れた信玄は十月四日に津久井から甲斐に抜けるべく撤退を開始した。六日、三増峠(神奈川県愛川町・津久井町)で待ちうけた氏照・氏邦らの軍勢が信玄の迎撃にあたるが大敗に終わる。滝山城から八王子城へと移転がなされたのは、信玄による攻撃で、城域が広大な上に曲輪間の高低さが小さいという滝山城の防禦(ぼうぎょ)上の弱点が明らかになったことが一因にあるといわれる。元亀二年(一五七一)十月氏康が死亡すると、氏政は信玄攻撃の要請に応じなかった謙信と断交し、ふたたび信玄と結ぶ。
  岩沢愿彦「越相一和について―『手筋』の意義をめぐって―」『郷土神奈川』一四、一九八四年

  市村高男「越相同盟の成立とその歴史的意義」『戦国期東国社会論』一九九〇年