領国の拡大

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「北条家人数付」という端裏書のある覚書(毛利文書)によれば、天正十八年の北条氏滅亡時、氏照は武蔵国竹(滝)山城、下総国栗橋城(茨城県五霞村)・関宿城(千葉県関宿町)・水見城(茨城県総和町)、下野国小山城(栃木県小山市)・江ノ本(榎本)城(栃木県大平町)の六か城の城主であり、北条氏の総軍勢三四、二五〇騎のうち四、五〇〇騎の兵を抱えていたという。滝山城は、氏照の滝山領支配の拠点となる城であったが、後述のように氏照は天正十五年三月頃までには滝山城から八王子城へと居城を移している。栗橋城以下の五か城は、氏照が北関東の制圧戦を遂行する中で獲得した諸城である。関宿周辺では、利根川は戦国時代には現在より西側を流れており、当時これらの諸城は古利根川を挟んで武蔵とは対岸に位置していた。北関東では、結城・佐竹・小山・宇都宮などの伝統的豪族が割拠して支配を展開しており、彼らの支配をおさえて北条氏が領国化を進めていくのは困難な状況にあった。そのため、北関東の制圧を中心的に推進した氏照には、古河公方足利義氏の権威と権力を利用することが認められたのである。

図5―93 古河公方足利氏略系図

 永禄四年の三田氏制圧後、永禄五年二月の古河城奪回、永禄七年一月の下総国府台における里見義弘の撃破、同年七月太田資正の子氏資による資正の岩付城追放と、武蔵東部から下総方面での北条方による巻き返しと勢力伸長が続いた。
 そして永禄八年三月、北条氏は岩付城・江戸城を前線基地に関宿城主簗田晴助の攻撃を開始する。簗田氏は古河公方足利氏の重臣で、藤氏(母は簗田氏の娘)を古河公方に担いで、義氏(母は北条氏綱の娘)を擁した北条氏と対立していた。関宿城は、ひろくみれば武蔵・上野・下野・下総・常陸諸国の国境地帯に位置し、常陸川(現利根川中・下流部)と古利根川との接点にあって、近辺の高野渡しが鎌倉街道中道の古利根川渡河点となる水陸交通の要衝であった。永禄元年に氏康の申し入れで簗田晴助が関宿城から古河城に移り、足利義氏の居城となっていたが、古河城を永禄五年に落された晴助が奪回していた。北条氏にとっては北関東制圧の橋頭堡(きょうとうほ)として、反北条勢力にとっては北条氏の侵攻に対する防波堤として、双方ともに重要な位置を占める城であったのである。晴助の抵抗によって、五月までの戦闘で城は陥落しなかったため、氏照は永禄十一年五月から同年十一月までの間に、古河公方宿老野田氏の居城であった栗橋城を足利義氏を介して収公し、ここを北関東侵攻の足掛かりとした。永禄十一年十月、北条氏は山王山砦(茨城県五霞村)と不動山砦を築き、ここを拠点に再度関宿城攻撃を行ったため、翌年三月晴助は上杉謙信に救援を求める。閏五月の越相同盟の成立により関宿城攻撃は中止され、氏照は山王山砦を破却して兵を納めた。同年六月には足利義氏が鎌倉から古河城に移座する。そして越相同盟崩壊後の天正二年閏十一月、三度目の攻撃によりついに晴助は関宿城を明け渡し水海城に入る。氏照は、翌三年二月に小山氏の下野国小山城・榎本城を奪取し、天正五年には小山城入城をはたし小山領支配を開始した。こうした軍事制圧の一方で氏照は、陸奥会津の蘆名盛氏らと結び、下野・常陸方面への進攻に際して、背後から佐竹氏を牽制するという遠交近攻策を用いている。
 佐藤博信氏は、氏照の栗橋城主化と足利義氏の古河移座による両者の密接な関係の成立、それに続く関宿城掌握が、北条政権内における氏照と足利義氏の位置付けにとって大きな画期となったとして、以下のような指摘をしている(佐藤一九七八)。
 まず注目しうることは、氏照が栗橋城主となった直後から新たな印章を用いはじめていることである。その印章は、足利義氏の初期の印章(印文「大和」)と同じサイズである四・三センチメートル四方の三重郭陽刻の朱印で、印文は上部が恐らく左書きで「栗橋」(下部は不明)である(図5―94参照)。元亀四(天正元)年十月から天正十七年と推定される年の五月十日までの発給が確認されており、使用範囲はそれまでの印判状の発給範囲(油井領を含む滝山・八王子領)に加えて、武蔵国品川、下野国小山など、かつての足利義氏直轄領や北関東に及んでいる。またそれを奉じる奉行人も、それまでの馬廻衆横地氏に代表される本城主との結合が強い奉行人体制から、狩野一庵を中心とした奉行人体制へと編成替えされ、奉行人との相対的な関係と本城主の影響力の及ぶことが否定されているのである。
 足利義氏は、それまで江戸城代遠山氏の軍事保護下におかれていたが、永禄十二年六月の古河移座の後は栗橋城主氏照が北条氏側との結節点となった。しかし、その関係はもはや保護的な関係ではなく、義氏から若干の権限を委譲された氏照が、かつて義氏が支配権を行使していた『北条氏所領役帳』の「葛西様御領」(=北条氏からの給地としての性格をもつ所領。長津田・小安・平塚・品川の計三九五貫一一〇文)や鎌倉の寺院を事実上支配し、公方家臣団を三増峠の戦いで軍事指揮下におくなど、古河公方への政治的支配といいうるものであった。こうした関係は、天正二年の関宿城の掌握を契機に確立され、以後、公方家臣団が実質的に北条氏家臣団に編入されるとともに、伝統的な御料所(公方領)までが氏照によって運営されるようになり、相模江の島のように古河から遠く離れた御料所は氏照の直轄領に編成替えされるのである。氏照はその上、義氏の奉行人的存在となり、義氏自身とその殿中に対しても支配を強めた。
 氏照は、栗橋城主化を契機に、一支城主の立場を越えて、越相同盟交渉を担当するなど外交奉行人としての地位を確立し、領国全般にわたる評定沙汰を執行する評定衆の筆頭となった。そして、関宿城攻略後の天正三年八月から翌年九月までの間に、兄氏政の相模守につぐ地位たることを示す陸奥守という受領に任じられ、鎌倉幕府の執権・連署にちなんで、氏政を補佐して北条領国内に二頭政治を展開していくのである。
 しかし、足利義氏が死亡した天正十年以降、氏直への権力集中と松田憲秀ら奉行人の権限が拡大される中で、氏照の政治的役割は後退していくことになる(峰岸一九九二)。
  佐藤博信「北条氏照に関する考察―古河公方研究の視点を中心に―」竹内理三博士古稀記念会編『続荘園制と武家社会』一九七八年、同氏『古河公方足利氏の研究』一九八九年に再録

  峰岸純夫「後北条氏政権における北条氏照の地位と役割―八王子築城問題との関連において―」八王子市郷土資料館研究紀要『八王子の歴史と文化』四、一九九二年