ここでも、滝山城・八王子城に関する数通の史料を提示した上で、従来の研究に依拠して築城・移転の時期や意図について述べてみたい。まず注目できるのは、天正六年と推定される寅年の二月十日に薬師山別当に宛てられた北条氏照制札(図5―94)である。薬師山とは高尾山薬王院のことで、八王子城とは小仏峠へ抜ける沢道を挟んだ南側に位置している。この文書は、「八王子御根小屋」に居住し在番している氏照家臣団が寺領の山に入り竹木・下草等を採ることを禁じ、聖域碓保を薬師山別当に保証したものである(峰岸一九九二)。文中に「下草成(なり)ともかくに付ては、従類共にくひ(首)を切らせらるべし、見合にからめとり滝山へ引かさすべし」とあるので、この時期には滝山城が中心的な機能をはたしており、八王子城もまだ小規模な軍事施設であったと思われる。滝山城に関しては、天正八年閏三月四日の氏照印判状(土方文書)で、土方弥八郎が「滝山宿に然(しか)と陣取」るよう命じられているので、この頃はまだ機能をはたしていたことがわかる。ところが、天正十五年と推定される三月十三日の岡見宗治宛て狩野一庵書状(岡見文書)になると、豊臣惣無事令の臨戦体制下で氏照が小田原城修築に赴く間、氏照奉行人の狩野一庵が「拙者は八王子に留守居せしめ候」と八王子城の留守を預かっているので、この時までには八王子城にある程度の移転がなされていたと思われる。
図5―94 北条氏照制札(薬王院文書)
そして、八王子城築城の重要な手がかりとなる史料が、加藤哲氏によって見出された(加藤一九八八)。『新編武蔵国風土記稿』久良岐郡氷取沢村の項に収載された二月二十三日の氏照書状(間宮文書)がそれで、氏照が大石筑前守・横地与三郎・間宮若狭守に、何らかの建造物の「普請」を一日も早く終えるよう督励させているものである。加藤氏はこの書状を天正年間の発給とし、さらに、間宮若狭守綱信が天正八年三月に氏照使者として織田信長を訪れ、安土城を観察してきた人物であることに注目して、発掘調査によって確認された八王子城の虎口の石造遺構を安土城の影響を受けたものと位置付けた上で、この普請こそ八王子城築城にあたると推測した。その後、二月二十三日の氏照書状は、原文書(間宮邦一氏蔵)に記された氏照の花押形から天正十年から十二年のものであることが峰岸純夫氏によって示され、普請が八王子城築城の可能性が高いことも論証された(峰岸一九九二)。峰岸氏は八王子城築城の意図を甲斐方面への備えという外的条件のみに求めるのではなく、政治的意義を重視すべきとして、氏照の築城意図は安土城をモデルとした、北条氏権力における自らの地位と役割にふさわしい政庁(小田原と並ぶ第二の首都)の建設にあったと主張している。しかし、八王子城は天正十八年六月二十三日、前田利家・上杉景勝ら豊臣秀吉の軍勢の攻撃によって未完成のまま落城をむかえるのである。
八王子城跡は現在、約一五四ヘクタールにおよぶ広大な地域が国の史跡に指定されており、八王子市教育委員会が昭和五十一年(一九七六)に城山川沿いの「根小屋地区」に戦国期の遺構群が埋没しているのを確認して以来、継続的な発掘調査が行われている。今までの調査成果として、八王子市教育委員会『八王子城跡』Ⅰ~Ⅻ(一九七八~九二年)、八王子市郷土資料館特別展図録『発掘された八王子城』(一九九六年)などが公表されている。ここでは、これまでに公表された成果によりながら、簡単に注目すべき遺構や出土物について述べておきたい。
八王子城跡は、標高四六〇メートルの深沢山山頂に設けられた本丸とそれに連なる曲輪群を中心とする要害地区、氏照の居館(御主殿(ごしゅでん))跡とみられる居館地区、御主殿と城山川を挟んで南側の曲輪群である太鼓曲輪地区、城山川沿いに家臣団の屋敷跡や寺院跡が伝承され、城下町に相当すると考えられる根小屋地区、城の南側の備えの曲輪群と考えられる御霊谷地区、伝小野田屋敷跡などから構成されている(八王子市一九九二)。昭和六十二・三年度の調査では、御主殿跡から石敷の階段三か所と踊場二か所からなる虎口(出入口)及びそれに伴う石垣と二か所の門跡、また城山川を挟んだ対岸では、御主殿への曳橋橋台を支える石垣など、安土城の影響と考えられる石造の遺構が検出されている。平成四・五年(一九九二・三)度の調査では御主殿跡に、庭のある接客用と考えられる東西に長い西側の建物(一三・四×二〇・九メートル)と、より大規模で南東部に張り出し部をもつ主殿と考えられる東側の建物(一八・一×二八・五メートル)の二棟の大型建物があり、その周囲に数棟の小規模な礎石建物や掘建柱建物が存在したことが明らかにされた。その調査では出土物も七〇、〇〇〇点を越えて見出されている。明代末萬暦期の舶載磁器が多く、染付磁器・白磁の皿の破片約三一、五〇〇点が集中して発見されたほか、五彩磁器や青磁の皿、瑠璃釉(るりゆう)の碗などの破片が出土している。国産の陶器・土器の破片は約一〇、〇〇〇点で、瀬戸・美濃(愛知県・岐阜県)系の灰釉(かいゆう)と鉄釉の皿・天目碗・擂鉢(すりばち)、常滑産(愛知県)の壷・甕などが大部分を占める。また、十六世紀のベネチア(イタリア)製のレースガラス破片三八点は、国内で唯一の出土例として注目される。このほか、多量の鉄釘や銅銭、八王子城に特有の大小の土玉、武具や装飾金具の破片、魚網用の土錘、石臼、硯、砥石などがある。坩堝(るつぼ)・鋳型(いがた)などの鋳造用具とともに砕かれた半鐘の破片が出土しているが、これは、天正十六年正月五日、愛染院(青梅市)、玉泉寺(青梅市)、茂呂大明神(埼玉県毛呂山町)などの梵鐘が氏照によって徴発されていることと関連付けられるものとして興味深い。御主殿内で鉄砲の弾丸などが製造されていたのであろう。
図5―95 御主殿(東側の建物)発掘現場
下山治久「滝山城から八王子城へ」八王子市教育委員会『八王子城』、一九八三年
加藤哲「八王子築城をめぐって」『駒沢史学』三九・四〇、一九八八年
峰岸純夫「後北条氏政権における北条氏照の地位と役割―八王子築城問題との関連において―」八王子市郷土資料館研究紀要『八王子の歴史と文化』四、一九九二年
八王子市教育委員会『史跡八王子城跡環境整備事業報告書』、一九九二年