惣無事令発布と北条氏の対応

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 天正十五年(一五八七)五月、九州の島津氏を屈伏させた豊臣秀吉は、次なる矛先を関東に向けた。同年十二月十三日、豊臣秀吉は惣無事令を関東と奥羽に発した。この惣無事令は、藤木久志氏の理解によれば、大名間の交戦から百姓間の喧嘩に至るまで自力救済による紛争解決を否定し、豊臣政権による最終的裁判権を受入れさせ、軍事力の行使を独占することを意図したものであった(藤木一九八五)。天正十六年四月十四日、秀吉は、後陽成天皇を聚楽第に招くとともに、諸大名を集めて秀吉への服従を誓う起請文を提出させた。この時、北条氏は上洛しなかったため、秀吉の意をうけた徳川家康が北条氏の上洛を催促した。これにより北条氏直は叔父の氏規を上洛させ、秀吉の惣無事令を受入れることにより両者の関係は小康状態となったのである。
 一方、関東では一回目の惣無事令(天正十四年十一月)が通告される以前より、秀吉の関東侵攻を予想して防衛体制固めを進めていた。天正十二年より小田原城以下の諸城の修築が始められ、天正十三年七月には武蔵・相模国内の郷村から男子を雇い軍事訓練を行なっている。天正十四年ごろから領国下の領主・家臣等に対して、離反防止のために人質(史料上は「証人」)を徴集している。天正十五年七月晦日には、武蔵・相模国内の郷村に対して軍事動員を目的とする「人改め」が命じられた。その内容は、①戦闘要員名簿の提出。②弓・鑓・鉄砲などの武具の指定。③軍装の指定。④罰則規定。⑤恩賞の約束などが記されていたが、戦闘要員の年齢幅は一五歳から七〇歳までを指定しており、まさしく総動員体制であった。
 北条氏一族の中でも主戦論の急先鋒であった八王子城主北条氏照は、支城単位の篭城戦を主導して戦時体制を整えていった。氏照も家臣からの人質徴集を初め八王子城の修築・人改めを進めた。また、氏照は天正十六年正月五日に多摩郡成木愛染院・同郡長淵玉泉寺・入間郡茂呂大明神に梵鐘の供出を命じており、第二次世界大戦における金属供出を髣髴(ほうふつ)とさせる。また、同八日には山伏への出陣命令も出されており注目される。
 多摩市域においてもこれらの影響が見られる。天正十五年五月八日に関戸郷代官松田憲秀は、高麗郡横手の領主山口重明に対して新たに関戸郷内勝河村を宛行い、子息弥太郎に横手の領地を譲らせた上で弥太郎に小田原詰めを命じ、重明を横手に配している(資一―811)。さらに天正十七年十月三日には、重明に関戸郷内乞田村を宛行い軍役勤仕を命じているのである(資一―813)。
  藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』一九八五年