北条氏旗下の軍勢は城郭に籠り、秀吉の軍勢が野に満ちていた北条氏領国下の郷村はどの様な対応を迫られていたのであろうか。合戦にともなう金品・穀物の略奪は一般に知られている。藤木久志氏は、十六世紀の戦乱の中で奴隷狩(どれいがり)が組織的に行なわれていたことを明らかにした(藤木一九九五)。これらの危機にさらされた郷村は、占領軍たる秀吉の軍勢に帰順するか、逃散(ちょうさん)するかの対応をとっていたようである。既に、秀吉出陣前の天正十七年十二月には小田原城近くの相模国足柄下郡海蔵寺が、天正十八年正月には同東郡八幡郷が、秀吉の禁制(きんぜい)を交付されている。四月・五月頃に戦況の趨勢(すうせい)が明らかになりはじめると相模・武蔵両国に郷村禁制の事例が多くなる。また、相模国西部には秀吉から還住令が集中して発せられるが、これは主戦場になったこの地域で逃散が数多く行なわれたことを示す。多摩市域では、四月に関戸郷に、五月に河辺七ケ村と貝取村に禁制が発給されている(資一―814・815・819)。貝取村への禁制に関しては、写しか残されておらず江戸時代の境相論の証拠文書に使われているので真偽の判断は慎重にしなければならないが、十六世紀における貝取村成立の証拠として使用されている点興味深い。
禁制は、社寺保護のために出される禁止条項を布令した文書に代表される「平時禁制」と、郷村からの申請により郷村の安全保障を主旨とする「戦時禁制」とに分けられる(小林一九九四)。ここでは後者の「戦時禁制」を問題とするが、戦時において禁制を申請し交付されることは、交付者に対して帰順を表明することである。また、郷村が禁制の交付対象になっていることは、郷村の自立化により当事者能力が備ってきている状況を示すものであろう。八王子市大塚の清鏡寺に残る秀吉禁制は、『新編武蔵国風土記稿』によると、清鏡寺住持の宗銀が由木郷を代表して小田原に赴いてこの禁制を給わったと記されている。
図5―96 豊臣秀吉禁制『清鏡寺文書』(資一―818)
藤木久志『雑兵たちの戦場』一九九五年
小林清治『秀吉権力の形成』一九九四年