豊臣秀吉の進攻と郷村

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豊臣政権と北条氏の間は、緊張を続けながらも小康状態を保っていたが、天正十七年(一五八九)十月に北条氏邦の家臣で上野国沼田城城将の猪俣邦憲が、真田氏領になっていた名胡桃城を攻略した。実は、この上野国沼田の領有に関しては秀吉の裁定により三分の二を北条氏直が、三分の一の名胡桃を真田昌幸が領有することに定められていたのである。即ち、名胡桃城への侵攻は直ちに秀吉への反抗につながっていたのである。関東侵攻を決した秀吉は、十一月二十四日に小田原征討の条書を発した。翌天正十八年三月一日、秀吉は京都を出発して関東へ兵を向けた。東海道を進む秀吉に呼応して、北陸からは前田利家・上杉景勝等の軍勢が北の上野に向けて迫っていた。四月三日、秀吉の軍勢は小田原に迫り小田原城の包囲を始め、四月六日には石垣城の築城にとりかかっていた。一方、北条氏領国下の支城もそれぞれに籠城して戦線の分断を試みていた。しかし、三月二十九日の山中城陥落を皮切りに諸支城が落とされ、五月中旬には小田原城・韮山城・八王子城・岩付城・鉢形城・忍城・津久井城を残すのみになっていたという。八王子城は、城主の北条氏照が小田原城に籠城していたために家臣の狩野一庵・横地吉信等が中心になって守りを固めていた。六月二十三日未明、鉢形城を落とした前田利家・上杉景勝・木村一・山崎堅家等の軍勢が八王子城への攻撃を始め激戦となったが、その日の内に八王子城は陥落した。そして、六月下旬には北条氏方に残る城は、小田原城と忍城のみになっていたのである。
 北条氏旗下の軍勢は城郭に籠り、秀吉の軍勢が野に満ちていた北条氏領国下の郷村はどの様な対応を迫られていたのであろうか。合戦にともなう金品・穀物の略奪は一般に知られている。藤木久志氏は、十六世紀の戦乱の中で奴隷狩(どれいがり)が組織的に行なわれていたことを明らかにした(藤木一九九五)。これらの危機にさらされた郷村は、占領軍たる秀吉の軍勢に帰順するか、逃散(ちょうさん)するかの対応をとっていたようである。既に、秀吉出陣前の天正十七年十二月には小田原城近くの相模国足柄下郡海蔵寺が、天正十八年正月には同東郡八幡郷が、秀吉の禁制(きんぜい)を交付されている。四月・五月頃に戦況の趨勢(すうせい)が明らかになりはじめると相模・武蔵両国に郷村禁制の事例が多くなる。また、相模国西部には秀吉から還住令が集中して発せられるが、これは主戦場になったこの地域で逃散が数多く行なわれたことを示す。多摩市域では、四月に関戸郷に、五月に河辺七ケ村と貝取村に禁制が発給されている(資一―814・815・819)。貝取村への禁制に関しては、写しか残されておらず江戸時代の境相論の証拠文書に使われているので真偽の判断は慎重にしなければならないが、十六世紀における貝取村成立の証拠として使用されている点興味深い。
 禁制は、社寺保護のために出される禁止条項を布令した文書に代表される「平時禁制」と、郷村からの申請により郷村の安全保障を主旨とする「戦時禁制」とに分けられる(小林一九九四)。ここでは後者の「戦時禁制」を問題とするが、戦時において禁制を申請し交付されることは、交付者に対して帰順を表明することである。また、郷村が禁制の交付対象になっていることは、郷村の自立化により当事者能力が備ってきている状況を示すものであろう。八王子市大塚の清鏡寺に残る秀吉禁制は、『新編武蔵国風土記稿』によると、清鏡寺住持の宗銀が由木郷を代表して小田原に赴いてこの禁制を給わったと記されている。

図5―96 豊臣秀吉禁制『清鏡寺文書』(資一―818)

  藤木久志『雑兵たちの戦場』一九九五年

  小林清治『秀吉権力の形成』一九九四年