北条氏敗北後の七月十七日、関戸郷に社領を持つ鶴岡八幡宮は直ちに寺領注文を秀吉政権に提出した(資一―820)。これによれば関戸郷の年貢は二〇貫文で年頭護摩料に充てられていた。この二〇貫文も関戸郷六人百姓が請負っていた五五〇貫六三四文の内に入っていたのであろう(資一―810)。これによって北条氏領国下においても関戸郷が鶴岡八幡宮領であったことが知られるのであるが、このあと関戸郷は松田憲秀の支配はもちろん鶴岡社領からも離れることになる。
図5―97 鶴岡八幡領注文『後藤文書』(資一―820)
徳川家康は、関東に移封され天正十八年八月一日に江戸城に入った。関戸郷の新たな支配者は、徳川家康の旗本として召し抱えられた北条氏の遺臣山角牛太郎定吉である。山角氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)以来の家臣で、牛太郎定吉は北条氏照の小姓であったと考えられ、氏照の切腹の時、その首を盗んで逃亡しようとしたのだが、家康よりその忠義を認められ、旗本に召し抱えられて関戸郷一〇五〇石を知行した(筏井一九八二)。この頃までの関戸郷は、所領単位としての郷の枠組みを保っていたが、やがて山角氏の所領が削減されると関戸郷という枠組みは、実態を失っていった。
筏井緑「旗本山角氏を追って」『郷土たま』創刊号、一九八二年