1 市域の旗本たち

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 市域の村々は、表6―1のように、江戸時代を通じて旗本領・幕領と寺社領が錯綜した地域であったが、幕領・寺社領は全体から見れば少なく、旗本領地が入り組む地域であった。また、大名の領分もなかったが、乞田村が一時期、寛文四年(一六六四)、幕府の要職若年寄を勤めていた土屋但馬守数直(のち土浦城主)が武蔵・相模に五〇〇〇石加増されたときにその領地の一部となったが、その後幕領に復し、元禄十年(一六九七)に旗本曽我氏領となっている。

表6―1 村々の領主変遷
(注)『寛政重修諸家譜』・『新編武蔵風土記稿』・『武蔵田園簿』・『旧高旧領取調帳』、および市内諸家に現存している文書をもとに作成した。
幕領になった時期が不明な場合が多くあるが、その場合は市内諸家文書に現れた年代を目安として幕領と示した。従って、必ずしもその時期に幕領になったことを表してはいない。

 本節では、以上のように江戸時代、市域の大部分を領した旗本たちについて、村々との関わりを絡めながら見て行くことにするが、これらの旗本たちは同じ時期に領地を与えられたわけではない。もちろん自由に領地を所有できるものではなく、検地や知行割といった幕府の政策の過程で、順次領地の宛行や移動が行われていったのである。これら旗本たちが市域の村々と関わりを持つ発端の頃を概観してみたい。
 また、市域には旗本の系譜を記した史料として桑嶋(資二社経19)・山角(資二社経150)・浅井(資二社経34)三家の「先祖書」・「由緒書」が現存するが、一地域のこのような例はむしろ幸運といえ、一般的には、幕府が編さんした大名・旗本の系譜を記した『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)を利用して叙述することが多い。本節でも、上記の三家の史料も含め『寛政譜』などに拠りながら動きを見ていくことにしたい。