この初期の時期に、市域に領地を与えられたのが旗本桑嶋(一ノ宮村)・中山(一ノ宮村)・山角(関戸村・寺方村・和田村)の三氏であった。
【桑嶋氏】 一ノ宮の山田賢助家に、桑嶋氏の「由緒書写」と表題された享保十年(一七二五)に記された一冊の帳面が現存する(資二社経19)。それによると、桑嶋氏は陸奥国の出身で、もとは狩野氏を名乗っていた。その後裔の万機親義(初代)は伊達輝宗に仕えていたが、のち北条陸奥守氏照に奉公し、天正十八年後北条氏没落後、三河国において徳川家康に召されて勤仕するようになり、多摩郡に采地(知行地)三〇〇石を与えられた。もっとも、最初は一ノ宮村・平山村(日野市)で六〇〇石を賜るはずが、同じく旗本の中山勘解由(照守)と三〇〇石ずつ下されたという。
親義は伊達氏に仕えていたことから、東北の雄伊達政宗への上使(使者)も勤めたと伝える。主君の上使を勤めることは重要な役目であり、先祖がいかに徳川家に忠勤を励んだか、家格を誇示するステイタスともなる。桑嶋氏も「申伝」=伝え聞くと曖昧ながらも、しっかりと由緒に書き記している。「由緒書」は自家をアピールすることが大切なのである。
さて、桑嶋氏は馬医(伯楽方ともいう)として幕府に仕えていた。馬医は若年寄支配の役職で、役高は二〇〇俵と定められていた。桑嶋氏が代々世襲した役職で「病の起る処を察して針灸湯液を与ふ」(『改定史籍集覧』第十一冊所収「明良帯録世職篇」)とあるように、馬の良否を見分けるのが役目であった。
五代目親能からは、桑嶋氏は甲府勤番を勤めることになる。享保九年(一七二四)、甲斐国一円支配を目指す幕府は甲府城主柳沢吉里を大和郡山へ転封させ、甲府城下守衛のため、現地在住体制による甲府勤番という役職を新設、幕臣二〇〇名と彼等を統率する勤番頭(甲府勤番支配)・組頭を選定した。このとき、桑嶋氏も勤番支配有馬出羽守純珍組の勤番士に組み入れられた。桑嶋氏が世職である馬医として甲府勤番に選ばれたのか、動向は定かではない。山田家に残る桑嶋氏の「由緒書写」は、甲府勤番に派遣されることになった当主助左衛門親能が、組頭の大河内十大夫信政に提出したものであった。
【中山氏】 中山氏は、武蔵七党の丹治氏の分かれで、高麗郡加治郷中山村を本拠とし、祖家勝は上杉氏に仕えた。家勝は、天正元年(一五七三)死後、中山村の能仁寺に葬られるが、この寺は家勝が開基したもので、この後中山氏の菩提寺になる埼玉県飯能市の古刹能仁寺である。
図6―1 中山氏歴代の墓(埼玉県飯能市能仁寺内)
次代家範は北条陸奥守氏照(氏輝)に仕え、しばしば軍功をあらわした。天正十八年、豊臣太閤(秀吉)の小田原征伐では、氏照の命により横地監物・狩野一庵某・近藤出羽等と八王子城を守り、前田利家・上杉景勝勢の急攻によく耐えた。家範は一庵とともに兵士を励まし防戦したが、終には妻子等を切った後自殺した。
家範の子照守も北条陸奥守氏照に仕えて戦功があったが、小田原城没落後は加治郷に潜んでいた。のち家範の忠節に感じ入った東照宮(徳川家康。なお、江戸時代に「徳川家康」などと実名で呼ばれることはない。東照宮・大権現等と称された。本節でも東照宮と表記している箇所がある)に照守と弟信吉は召されて旗本に列し、照守は多摩郡の内に采地三〇〇石を賜った。照守は二代将軍となる秀忠に付属されて使番を勤め、関ヶ原合戦や大坂冬・夏の陣など諸々の戦で使いとして走り回った。今で言う〝使い走り〟ではない。将軍の信任を得た旗本たちでなければ勤まらないのである。こうした功績により加増を重ねるとともに、目付に転じ、鎗奉行に昇進したときには三五〇〇石を知行する上級旗本となっていた。また、照守は高麗八条流馬術の奥義を極め、将軍秀忠および三代家光にその術を伝えた。こうして照守は中山家の基礎を築いたのであった。
一方、弟信吉は東照宮の御小姓として近侍し、歩行頭(御徒頭)に進んだ後、家康九男頼房の家老を命ぜられ、六五〇〇石を知行する旗本となった。元和二年(一六一六)従五位下備前守に叙任し、同七年、頼房より五〇〇〇石を加増され、それまでの加増分を合わせ二万石を領する大名に出世する。以後、信吉系中山氏は、水戸徳川家の付家老として明治維新まで続くことになる。
ところで、照守は旗本に列して多摩郡に領地三〇〇石を与えられたわけであるが、同じ領地を、もともとは桑嶋万機親義一人に与えられるところが、桑嶋・中山両人(つまり半分ずつ)に与えられたと桑嶋氏の項で述べた。中山照守も桑嶋親義もともに北条氏照に仕えていたということであろうか。徳川氏が政権確立の過程で、織田・武田・北条氏等の旧家臣を幕臣として編入させていったことはよく知られているが、それだけであろうか。中山家範が、豊臣秀吉の小田原征伐のときに、主君北条氏照の命により八王子城を守ったことは前述の通りであるが、このとき家範とともに必死に防戦したのが「狩野一庵某」と記されている。桑嶋氏はもとは狩野氏を名乗っていたという。ひょっとしたら桑嶋氏は同じ狩野一族であったかもしれない。
天正十八年、徳川家康に従って関東に入国してきた家臣たちは、ただちに江戸城下の建設と家臣団の屋敷割りが行われ、検地を行って知行割りが進められたとはいえ、仮住まいをせざるを得ない。多くの家臣は一人、二人、あるいは一族や同僚と江戸近辺に仮の住まいを定め、江戸に日参したのである。こうした開発途上の時期には、まだ自由な動きができた。桑嶋氏の由緒書は〝自分一人のはずが〟というか、あるいは中山・桑嶋両家の関係があってのことかもしれない。
【山角氏】 山角氏の祖対馬某は、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が関東に下向するときに従った者のうちの一人で、たびたびの戦功により、関東所々に領地を与えられていたという。その後も山角氏は後北条氏に仕え、牛太郎定吉は、八王子城を守る一族の重鎮北条陸奥守氏照に仕えていた。天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐により、陸奥守氏照は兄氏政と共に責任を負って自殺した。豊臣太閤や東照宮から家臣が検使として派遣されてきたが、牛太郎定吉もその場に居合わせていた。氏照・氏政の弟北条美濃守氏規(のちこの北条氏は河内国狭山藩主として明治維新まで続く)が二人の介錯をしたが、直後、太閤の家臣等がその首に狼藉を働いたため、定吉はとっさに主人氏照の首を抱え、東照宮の重臣井伊直政・榊原康政に預け、自分も自殺しようとした。直政等が必死にこれを止め、ことの始末を東照宮に言上したところ、その忠勇を惜しみ、重ねて自殺を思い止まらせたという。その後、定吉は剃髪して高野山に登り氏照の菩提を弔っていたが、これを伝え聞いた東照宮がその志を感じ入り、旗本に召し抱え御小姓となし、多摩郡内に一〇五〇石の領地が与えられた。天正十九年のことであった(資二社経150)。
図6―2 山角氏先祖書