寛永の地方直し

787 ~ 788
寛永十年(一六三三)二月七日、三代将軍家光は江戸城大広間に、大番・書院番・小姓組番の三番士で家禄一〇〇〇石以下の旗本を集め、一律二〇〇石の加増することを申し渡した。また、廩米取りの旗本は采地に改めることとした。これが「寛永の地方直(じかたなお)し」と呼ばれるものである。寛永の地方直しは、直接的には幕臣団(旗本・御家人)の財政難に対する救済策とされるが、幕府の旗本統制強化の一環として、幕府機構の確立過程のなかで実施されたものといえる。
 この地方直しにより、市域に知行地を与えられたのが天野氏(連光寺村)・松平氏(貝取村)であった。
【天野氏】 天野氏は三河国岩戸村に住し、累代徳川家に仕えた家筋である。孫左衛門久次は東照宮に仕え、関東入国のときに武蔵国入間郡に采地三〇〇石を賜った。のち紀伊大納言徳川頼宣に付属され、一〇〇〇石を宛行われる朱印を頂戴し、家老に代わり訴訟を承る役目を勤めた。久次の長男左近は父に継いで紀伊頼宣に仕えたが、次男重房は、二代将軍秀忠に仕えていたことから、父が頼宣に付属されるとき、重房は直臣(旗本)として残され、父の本領三〇〇石を賜った。慶長十九年(一六一四)の大坂の陣では大番組として活躍、寛永五年(一六二八)大番組頭に進んだ(大番組頭の創置は同十年二月とされているので、『寛政譜』の記述の誤りか)。そして、同十年二月、「寛永の地方直し」で三番士への加恩にともない、同月二十三日大番組頭一四人に五〇〇石・四人に四〇〇石・一八人に三〇〇石ずつ加増があった(『徳川実紀』二篇)が、このとき重房は多摩郡・都築郡に五〇〇石を加恩され、合計九一〇石を知行する旗本となった。

図6―3 天野氏墓所青松寺(港区)と天野氏代々の墓

【松平氏】 松平氏は、よく知られているように徳川将軍家の一族の名字(称号)である。そのうち、額田郡宮石に住していたのが、八郎右衛門貞次に始まる宮石の松平氏であった。三代目加賀右衛門康次は、少年の頃より東照宮に近侍して数々の戦場で軍功をあげ、伏見城や駿府城の守衛を任されている。康次の四男新五左衛門直次は、伏見で家康に拝謁し、命により江戸に下り秀忠に近侍したことで、別家を立てて独立した旗本となっていく。元和二年(一六一六)九月、若君(家光)付属の書院番・小姓組番士六〇名のうちに選ばれ、且つ四人の筆頭役の一人を勤めたという。その後、書院番組頭・徒頭を勤め、寛永九年(一六三二)に持弓頭に進んだ。そして、翌十年の地方直しにより、十二月に持弓頭・持筒頭・先手頭は七〇〇石加増され(『徳川実紀』二編)、直次は、多摩郡・橘樹郡・常陸国真壁郡・甲斐国内等で合計一四〇〇石を知行することとなった。多摩郡では、貝取村・落川村(日野市)が知行所となった。