元禄の地方直し

788 ~ 792
寛永以後も、地方直しは度々行われていたが、元禄十年(一六九七)の地方直しは、寛永の地方直しとともに大規模に行われたものであった。同年七月幕府は、禄高五〇〇俵以上の旗本に対し、蔵米を地方と引換える法令を通達した(『徳川禁令考』前集第四 二三二八)。これにより、五〇〇俵以上~六五〇〇俵以下の旗本五二三人がその対象となった。時の勘定奉行荻原近江守重秀の建策による元禄の地方直しは、幕府財政の立直し・幕府権力の集中強化を目的としたものとされるが、幕領と旗本知行所を大幅に入れ替え、江戸周辺地域を幕領とし、旗本の知行地を相模国や下総国・下野国へ移動させ再編成を行った。この旗本知行所の大幅な移動により、一村を複数の旗本が分割支配する相給(分郷)形態が多くとられたことも特徴であった(分郷については第四節参照)。
 この元禄の地方直しで、市域に知行地を与えられたのが和田(和田村)・曽我(乞田村・寺方村・一ノ宮村・落合村)・松平(落合村)氏であった。また、この直前の元禄七年に、浅井氏が知行地替えで市域の寺方村・和田村を領することになった。
【和田氏】 和田氏は近江国甲賀郡和田村に住し、「甲賀武士」五三家と呼ばれる中でも二一家に数えられる土豪であった。伊賀守維政(惟政)は、奉公衆として足利将軍家に仕える戦国武将で、永禄八年(一五六五)に一三代将軍足利義輝が松永久秀等に暗殺された後、幕府再興を企てて義輝の弟義昭(一五代将軍)を擁立、織田信長を頼りつつ義昭が京都に入るまで従った(『国史大辞典』)。維政は、義昭の入洛の情報を当時三河国を統一して遠江攻略を目指していた徳川家康に伝え、家康の懇ろな返礼をもらったと『寛政譜』に記すから、徳川氏との関係は古い。後に信長に属しながら、敵対する本願寺門跡に密通を試みるなど(『国史大辞典』)、策士的な一面を持っていたのがわざわいしたのか、信長の命を受けた荒木村重との戦いにより討ち死にしてしまう。
 次代の維長も豊臣太閤に仕えたが、紀州雑賀攻めで勘気を被るなど、和田家は順調な道を歩んではいない。関ヶ原合戦後、家康の信任厚く、甲賀武士を預かる甥の旗本山岡道阿弥景友(母が伊賀守維政の娘・維長の妹)の仲介により維長は家康に拝謁し、かろうじて和田村の旧知五九〇石を安堵されたのであった。
 幕臣となってからの和田氏は番方の家筋として無難に過ごし、七代目惟春は書院番から、将軍の理髪・食膳・庭方等の雑用をこなす奥向の役職小納戸に進み、元禄六年(一六九三)新恩として三〇〇俵を加増された。そして、同十年の地方直しで新恩三〇〇俵の廩米を改め、多摩郡に采地を賜った。

図6―4 和田氏累代の墓(中央)
(台東区長松寺内)

【曽我氏】 曽我氏の歴史は古く、相模国曽我郷に住し鎌倉幕府・室町幕府に仕えた名家といえるだろう。慶長五年(一六〇〇)、曽我又左衛門尚祐が駿府で東照宮に拝謁したとき、室町将軍家の書札法式を江戸において伝授するよう命ぜられ、翌年より将軍秀忠の「御夜詰」(御伽衆か)として奉仕し、旗本曽我氏の基礎を築いた。尚祐の三男包助は別家を立てて旗本となり、さらに包助の五男七兵衛祐忠も、寛文三年(一六六三)に書院番(役高三〇〇俵)に番入りして独立した旗本となる。祐忠は、その後中奥番から小納戸に進み、元禄五年(一六九二)三〇〇俵を加増された。同十年の地方直しで、それまでの廩米を改め、多摩郡内に采地六〇〇石を賜った(有山武三家伝来文書では、曽我・松平の分郷は全てが十一年となっているので、実際に移動があったのは十一年であろう)。同十三年にさらに埼玉郡に二〇〇石を加増され、合計八〇〇石を知行する旗本となった。
 祐忠が中奥番に転じたのは延宝八年八月で、徳川綱吉が五代将軍を襲職する時にあたる。以来祐忠は奥向きで将軍綱吉に近侍し目を掛けられたようで、綱吉より葵紋付の鞍鎧、親筆の掛軸を拝領している。この背景には、祐忠の父包助と兄助興が、綱吉が館林藩主となる直前に、神田館(綱吉邸)付属を命ぜられ、包助は家老、助興が奏者役を勤め、包助の死後跡を継いで家老となった助興は、綱吉が将軍になった後は御側衆として、側近の一角を占めていたことが、大いに関係しているであろう。中級の旗本としては羽振りがよかったのである。
【松平氏】 三河国宝飯郡竹谷に住み、「一八松平」の中でも本流一族七家のひとつが竹谷松平氏である。備後守清宗の二男清定は、兄家清が天正十八年の小田原征伐後に武蔵国児玉郡八幡山(埼玉県児玉町)に一万石を賜ったとき、領地の内千貫文の地を分かち与えられ、さらに家清が三万石に加増され三河国吉田城に封ぜられたときも、内々三二〇〇石を与えられた。しかし、清定は二一歳の若さで死去してしまったため、これらの領地は幕府に返上された。跡を継いだ清信が、寛永十二年(一六三五)になって三代将軍家光に拝謁し小姓組番(役高三〇〇俵)に列したことで、旗本として独立した。
 次代清行は、小姓組番から中奥番、小納戸と進み家禄も九〇〇俵に増えていた。寛文十年(一六七〇)に遺跡を継いだ次郎兵衛清親は、父と同様に小姓組番から桐間番、小納戸に進み、元禄十年正月三〇〇俵を加えられ、同年七月廩米を改め、多摩郡内に采地一二〇〇石を知行した。
【浅井氏】 旗本浅井氏の祖元近(初め政胤)は、三河国額田郡大樹寺村(大樹寺は徳川家の菩提寺)に住して徳川家康の父広忠、家康、秀忠三代に仕え、武蔵国豊島郡に五〇石を賜り、元近の子元貞も家康の関東入国に従い、のち江戸城虎間番や富士見番を勤めた。いわゆる三河以来の譜代旗本である。元貞の長男元吉は別家を起こすので、次男元信が遺跡を継いで富士見番を勤めた。そして、四代目元清も富士見番を勤めるが、以後、本家浅井氏の子孫は旗本より身分の低い御家人として続く。
 七平元吉は、幼少のとき父元貞とともに鷹狩りに遊ぶ家康に拝謁して召出され、幼少ゆえ家康側近の一人村越茂助直吉の補佐を受けながら家康に近侍した。段々に取立てられ、浅井氏系図(資二社経34)には「大岡美濃守同役にて御側御奉公」を勤めたという。「大岡美濃守」とは、年代的に推察すると、旗本大岡忠吉とも考えられる。忠吉は、慶長七年(一六〇二)に一六歳で東照宮に御目見し「御傍」に仕えているが、「美濃守」に叙任するのは寛永十年(一六三三)であるし、元和八年(一六二二)に死去している元吉とは合いそうもない。ただ、忠告の甥で幕府の大目付を勤める大岡佐渡守忠勝が元吉の娘を妻としているので、後世この系譜を書き記した浅井氏が、名門大岡家との繋がりを強調したのかもしれない。いずれにしろ、事実関係は不詳とせざるを得ない。
 元吉は武蔵・近江両国内で一五六三石余を拝領したが、遺跡を継いだ長男元正は武蔵国入間郡鯨井郷二二〇石・屋計郷三二六石・近江国伊香郡柳野村一九三石・東阿閉村二五三石・高田村七八石、合計一〇七〇石余を知行し、弟元久は、父の遺跡のうち武蔵国児玉郡北堀村一七七石・上野国那波郡飯島村一四四石・河原村一七八石、合計五〇〇石余を分け与えられ、別家旗本として独立した。しかし、元吉の跡を継いだ元正は寛永十一年二八歳で死んでしまい、後嗣がなかったため断絶する。
 元久の子元忠も書院番士となっていたが、元禄七年(一六九四)知行替えにより多摩郡下田村(日野市)および中和田村・寺方村を領することとなった。

図6―5 浅井氏墓所浄念寺(台東区)