消えた旗本・謎の旗本

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前述したように、旗本・御家人など幕臣等の内実を語る史料といっても、旗本当主自身が日記などの記録を残す例や、その家臣が記録を残していることは稀である。かつての知行所村々に、その地域を領した旗本の史料が残されているといってもそう多くはなく、不明な事が多い。まして、江戸時代の何時の時代かに知行所が変わり、その地を去ってしまえば、なおさら分からないことになる。市域にも、そうした行方の知れない旗本がいた。
【消えた旗本山中氏】 山中氏は代々後北条氏に仕えていたが、四代目新右衛門直元は、天正十八年に東照宮が関東に入国したときに召されて旗本に属し、関戸郷に采地三〇〇石を与えられ大番を勤めた。直元の没年は不詳であるが、五代目を継いだのが七左衛門直利で、『武蔵田園簿』の和田村の領主名に出てくる「山中七左衛門」と判断される。しかし、七左衛門直利がどういう経歴であったのか記述がまったくなく、直利の跡を継いだと思われる五郎兵衛利次にいたっては名前だけで、この山中氏は『寛政譜』などでは利次以下の系譜が途絶えているのである。直利の弟で彦四郎元次という、別家を立てた山中家があるが、本家に関する情報は書かれておらず、この山中家も、代官を勤めた新次郎某のときに不正が発覚し遠島に処せられ断絶してしまう。
 ところが、この山中氏に関して興味深い史料がある。和田村(上ケ和田・中和田)と村内の寺社の由来を記した「旧記」で、天保十一年(一八四〇)に写された「両和田邑古今鏡」と表題された一冊(資二社経20)は、「山中新右衛門殿子息七左衛門殿二代也」と見出しが付けられて始まる。そして、書出しで七左衛門の代で断絶したと先ず言っているのである。その理由は、大塚村(八王子市)に井上玄蕃・孫六主従なる盗賊がいて、ある正月、七左衛門が乞田村の吉祥院から関戸村へ年始に行くところを玄蕃主従が待ちぶせして討ち取り、その足で和田屋敷へ行き、「注進」を装って七左衛門の夫人も殺害し、金品を強奪して逃げ去り、これにより山中氏は断絶したというのである。続いて「是ハ井上玄蕃年寄之さんけん物語印置也」と、締め括っている。井上玄蕃にまつわる話が年寄達の間でよく聞かれた、とでも訳したらよいのだろうか。これ以上の内容は書かれていないので「物語」の域を出ないが、登場する人物は、まさしく旗本山中氏ではなかろうか。
 さらに、『新編武蔵風土記稿』の上和田村の項には、天正十九年に山中新右衛門が知行地を賜ったが、承応二年(一六五三)に天領となったと記され、旧蹟として山中新右衛門屋敷跡が高蔵院の東方にあり、かつて山中氏が居住していたことも記している。
 『寛政譜』にも、記録にありながら「以下系嗣を詳にせず」とされる旗本も多くある。そうした中で、この「両和田邑古今鏡」は、真偽の程は定かではないが、歴史に埋没してしまった旗本山中氏の断面を伝えてくれる。
【謎の旗本小野氏】 江戸時代に中和田村の名主を勤めていた石阪好文家の天保十四年(一八四三)の「御用留」中に、当時の多摩市域の領主名を記した部分がある(図6―6)。その落合村の旗本領主名として曽我駒之丞・松平登之助とともに「小野佐渡守」と記されている。ところが、市域のどの史料にも「小野」という旗本はでてこない。そもそも落合村の領主に小野氏は有り得ないのである。では、何故「小野佐渡守」という名前があるのだろうか。

図6―6 天保十四年御用留

 天保十二年十二月まで、小野佐渡守信古は広大院(一一代将軍家斉夫人)の用人を勤めていた。この小野氏をたどっていくと、後北条氏に仕え、佐渡守吉照を祖とする旗本小野氏に行き着く。その四代目久内吉次は、東照宮に拝謁後、将軍秀忠の鷹匠頭を勤めたが(図6―7)、『寛政譜』に「はじめ武蔵国多摩郡落合村に住居し」と記され、「落合村」との関係が確認できる。吉次は、寛永十八年(一六四一)に旧知多摩郡栗原村(多摩郡に栗原村はなく、後述を勘案すると、元禄期に栗原村が一村独立する以前は新座郡片山村に含まれていたので、これを指すのかもしれない。現在新座市栗原の地名で、東久留米市と接している)とその周辺に三〇〇石の采地を賜り、正保三年(一六四六)には一〇〇石を加増され武蔵国多摩・新座・埼玉三郡で都合四〇〇石を知行した(以後、家禄の変動はない)。そこで、『武蔵田園簿』を調べると、久内吉次は多摩郡落合村一五〇石・新座郡片山村(埼玉県新座市)五〇石・埼玉郡山谷村(埼玉県越谷市)一三二石余・同東方村(同)六七石余の四か村合計四〇〇石を知行している。つまり、小野氏という旗本が「落合村」に知行地を持ち、その子孫が小野佐渡守であると考えてよさそうである。しかし、落合村は元禄十年に曽我(一二四石余)・松平(二八九石余)両旗本の分郷となって以降、白山社領一〇石を含め領主の移動はないのである。

図6―7 寛永十七年鷹匠小野久内の活動を伝える史料

 実は、「武蔵国多摩郡落合村」は二か所あり、もう一か所は現在の東久留米市の「落合村」で、小野氏はこちらの領主なのであった。
 さて、事実関係はこれで解決するが、では何故、多摩市域の落合村の領主名に「小野佐渡守」と記されたのであろうか。そもそもが市域と無縁なのであるから、当時の落合村の人々をはじめ近隣の村人達も「小野」などという旗本は知らなかったであろう。「御用留」は、幕府や領主からの触達しを書き留めるものであるから、石阪家の名主(杢右衛門)も触達しをそのまま書き留めたのであろうか。しかし、その時、隣村の領主名に「小野佐渡守」と記される不自然を感じなかったのであろうか。同じ地域の領主名を村役人が知らないとは考えにくいのであるが、謎のままである。