財政難の旗本たち

796 ~ 797
前項では、旗本たちが、市域に領地を与えられた頃について概観したが、市域の領主となった旗本と知行所となった村々との関わりがどのようなものであったか、見ていくことにしよう。
 元禄の地方直しにより、曽我・松平(竹谷)・和田氏が市域の領主となる頃には、旗本たちの家筋(家柄)も定着していた。
 表6―2を一覧して分かるように、馬医として幕府に仕え、後に甲府勤番となった桑嶋氏以外は、書院番や小姓組番といった「番方」に就任する家筋であったことがわかる。一方、勘定奉行や勘定吟味役以下、勘定所関係の役職を「役方」といい、家柄もさることながら、本人の能力次第で昇進できる道が開けていた。市域の旗本領主に、そうした「役方」を勤めた者がいないということは、つまりは「番方」筋の家柄であり、家禄の多寡はあるが〝譜代直参〟を誇りにするような旗本諸家であった。
表6―2 市域の旗本と当主の履歴
旗本名 通称 役職変遷
浅井(540石)……寺方・和田
元久 蔵人・七平 小姓組番
元忠 七郎左衛門・七平 書院番
元重 七郎左衛門・七平 書院番
元武 七蔵・小右衛門 小姓組番→徒頭(本丸・西丸)→先手鉄砲頭+盗賊追捕
(元茂) 七平・吉十郎 小姓組番
元知 喜太郎・小右衛門 書院番
天野(810石)……連光寺
重久 孫左衛門
久次 左近・孫左衛門 紀伊大納言頼宣付属
重房 源蔵・孫左衛門 大番→同組頭→船奉行
重時 伝左衛門・孫左衛門 大番→船手→先手鉄砲頭
重政 伝之助・伝左衛門 書院番
重供 伝之助・孫左衛門・内記 小姓組番
久斗 伝之助・内膳・孫左衛門 小姓組番(西城)
久豊 伝之助・伝蔵 書院番
久周 伝之助・孫左衛門 小姓組番
久芳 吉次郎・伝之助
桑嶋(300石)……一ノ宮
親義 助左衛門・万機 伊達輝宗に仕える。馬医
吉宗 孫六郎 馬方
宗次 二郎兵衛・孫六郎 伯楽方
宗信 孫助・源五郎・孫六 伯楽方
親能 孫三郎・助左衛門 甲府勤番(甲府在住)
親茂 兵吉・孫六 甲府勤番
親睦 吉之進 甲府勤番
親正 五百蔵
親順 亀五郎
曽我(800石)……乞田・寺方・落合・一ノ宮
祐忠 織部・七兵衛・伊予守 書院番→中奧番→小納戸
助賢 七助・織部・七兵衛 小納戸→小姓組番→小十人頭→先手鉄砲頭→新番頭
祐弘 七助・織部・七兵衛 小姓組番
助章 幸十郎・織部 小姓組番
祐諸 小市郎・左膳
祐弼 鉄次郎・七兵衛 書院番(西城へ)
助之 喜蔵
中山(3000石)……一ノ宮
家勝 助六郎・勘解由 上杉家に仕える
家範 助六郎・勘解由 北条氏照に仕える
照守 助六郎・勘解由  〃。使番→目付→鎗奉行→旗奉行
直定 助六郎・勘解由 小姓組番→徒頭→小姓組番頭→先手弓頭
直守 新藤左衛門・助六郎・勘解由・丹波守 小姓組番→徒頭→先手鉄砲頭+盗賊追捕→大目付
直房 助六郎・勘解由 小姓組番→使番→先手鉄砲頭
直正 新藤左衛門・助六郎・勘解由 小姓組番→徒頭
直看 新藤左衛門・助六郎・勘解由 寄合→小普請→小姓組番
直秀 新藤左衛門・勘解由 使番
房明 権蔵・勘解由 使番
直寛 新藤左衛門・勘解由 使番→小普請支配
直隆 勝熊・助六郎
直有 勝太郎
松平<宮石>(1400石)……貝取
直次 新五左衛門 書院番組頭→徒頭→持弓頭
直広 新五左衛門 小普請→小姓組番→徒頭
直由 新五右衛門・新五左衛門 書院番→同組頭→西丸御留守居→旗奉行
乗重 式部・新五左衛門 書院番
乗光 源五郎・斎宮・帯刀 書院番
乗慧 末五郎・新五左衛門 小姓組番(本丸・西丸)
乗通 源五郎 書院番
松平<竹谷>(1200石)……落合
清定 内記 小姓格
清信 内記 小姓組番
清行 主膳・次郎兵衛 小姓組番→中奥番→小納戸
清親 伊織・次郎丘衛・次郎左衛門 小姓組番→小納戸
清興 内記・次郎左衛門 書院番→徒頭
親賢 大進
親房 伊織 西丸小姓組番
貴強 次郎兵衛・石見守 小姓組番→使番→大坂町奉行→長崎奉行→勘定奉行+長崎奉行
山角(600石)……関戸・寺方・和田
定澄・対島
定吉 四郎左衛門
定次 主殿
定吉 牛太郎
勝成 市蔵・藤兵衛 書院番
定勝 清三郎・藤兵衛 小姓組番→書院番→三崎奉行
勝美 清三郎・清丘衛 小姓組番
経呈 清三郎・藤兵衛 小姓組番
親詮 民部・藤兵衛 小姓組番(本丸・西丸)
定浩 清三郎・牛太郎・四郎左衛門 西丸書院番→同組頭→御留守番
和田(890石)……和田
宗立
維政 惟政・伊賀守
維長 惟長・伝右衛門
維重 惟重・五助・伝右衛門 大坂鉄砲玉薬奉行
維久 惟久・伝左衛門 小姓組番
惟春 伝十郎・伝次右衛門・源右衛門 書院番→小納戸
惟祥 伝十郎・伝右衛門 書院番
惟貞 鉄之助・源右衛門・五助 書院番→同組頭
惟名 長五郎・源左衛門・蔵人 西丸小姓組番
惟嘉 次郎助
惟保 鉄之助

 旗本等幕臣団の財政基盤は、知行所村から上がってくる年貢米が基本で、この年貢米を換金したものが収入のすべてであった。もちろん、そのすべてが領主の取り分なのではなく、三〇~四〇%が領主分であったろう。従って、水害や旱魃などの天候不順により凶作になれば、年貢収納が減ることになり、領主の収入も減るわけである。そのため、領主は毎年の収穫の豊凶を見て年貢率を決める検見取の他に、豊凶に関係なく過去数年の収穫量から平均した定率の年貢を納めさせる定免法を実施して、収入の確保を計ったのである。
 旗本は、有職・無職に関係なく、代々家禄が引き継がれ、落ち度があって減禄や改易されない限り、その収入は保証される。逆にいえば、目覚ましい活躍をして、あるいは、長年にわたり無事職務を全うし、一種の褒美として加増をされるなどがなければ、収入が増える素地がまったくなかった。
 江戸開幕以来泰平の世がつづき、社会経済、商品流通が発達し、生活文化が向上するに従い、大消費都市江戸に生活する旗本等の支出も増大していったが、収入の増加を見込めない旗本たちにとって生活資金の限界を越えるのに、そう時間はかからなかった。寛永十年に地方直しが実施された背景には、旗本の困窮を救う目的があったと先にも述べたか、ようするに、江戸時代の初めより、旗本たちは慢性的な財政難にあったのである。
 市域の旗本たちも、以上のような財政難に陥っていたことは容易に推測できようが実際はどのようであったか、桑嶋氏と浅井氏を例にとって、財政難にあえぐ旗本と知行所村の対応を見てみよう。