桑嶋氏と一ノ宮村

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前項で述べたように、享保九年(一七二四)以降、桑嶋氏は甲府勤番として甲府に在住することになったが、知行形態はかわらなかったので、一ノ宮村と平山村が桑嶋氏の知行所として明治維新まで続いた。甲府勤番になる以前の桑嶋氏と知行村の関係を知る手掛かりは皆無に近いが、正徳五年(一七一五)に桑嶋孫三郎(親能)から、小野神社前の道一畝二歩が永代寄付されている(太田伊三郎家文書)。小野神社は社領として一五石の朱印が与えられているから無税であるが、境内地以外は年貢の対象地であるから、永代寄付といっても年貢を納めなければならない。この社前の道については、桑嶋氏が「合力」として金二分~二分二朱を負担していたようである(山口正太郎家・山田賢助家伝来文書)。
 甲府勤番は、八代将軍吉宗の享保改革の一環として新設された役職であった。幕領の拡大政策の一環として甲斐一国を幕領化し年貢額の増大をはかり、さらに甲府を幕府の直轄都市として組み入れることにより、軍事・政治的拠点として位置付けようとする政策であった。甲府勤番の任務は甲府城とその城下を警護することにあった。大手(追手)・山手の二組に分かれ、それぞれ勤番支配一人・組頭二人・勤番士一〇〇人・与力一〇人・同心五〇人等で構成され、城中・城下の警備を始め、城米・武具の管理や甲府市中の民政にあたった。のち寛政元年(一七八九)には甲府勝手小普請が設けられ、人員の増加が計られている。各勤番支配の下には、組頭二人の他に仮目付五人と武具奉行・破損奉行・御蔵立会各一名が勤番士の中から選ばれて、実務処理を行った。勤番士の職務は、甲府城内楽屋曲輪にある勤番所へ出勤し、甲府城の警備にあたることが第一の任務で、昼間は勤番士五人、夜間は仮目付一人を加えた六人体制と定められていた。
 桑嶋氏が甲府勤番に選定された理由は不明であるが、享保九年の甲府勤番創設初期に勤番支配に就任した旗本には、旧武田家臣やそれに連なる縁戚関係を濃く持っている、いわば甲州系の旗本が多く(田淵正和「設置時期甲府勤番支配就任者についての一考察」『武田氏研究』六)、勤番士にも甲州との関係を有する者が多く任命された(平沢勘蔵「甲府勤番支配の成立に関する一考察―主として勤番士の閲歴・系譜を中心に―」『法政史学』二八)。
 桑嶋氏は、先祖は後北条氏に仕えていたから甲州出身ではないが、二代目吉宗は武田旧臣の駒井氏から養子に入っているし、桑嶋氏の「由緒書写」(資二社経19)には父方の遠類に曲淵や跡部といった武田家に仕えていた家筋も見られる。あるいは、こうした関係から桑嶋氏が甲府勤番の選考に加えられたのかもしれない。
 甲府勤番は持高勤めといって役料(手当)が支給されないが、仮目付・武具奉行・徽典館頭取等を勤めると手当が支給された。甲府勤番となってからの桑嶋氏の動向は定かではないが、天保十年~十五年(一八三九~四四)の間に、仮目付として桑嶋孫六郎の名前があるので、仮目付の手当銀一五枚を支給されていた時期もあったろう(『甲府市史』通史編第二巻・同史料編第二巻)。恒常的にこうした特定の役職を勤めていたかは不詳で、普通に勤番士を勤めていたならば、桑嶋氏の収入は、知行所からの年貢金がすべてである。
 桑嶋氏は、一ノ宮村(一五四石)と平山村(一四六石)で合計三〇〇石であったが、『旧高旧領取調帳』では一ノ宮村一八七石・平山村二〇四石、合計三九一石余りに増加している。
 桑嶋氏の財政収支についても、具体的な数字から分析するには現存する史料の制約があるが、一ノ宮村分については寛政十一年(一七九九)・文化十一年(一八一四)・同十二年・文政二年(一八一九)の四か年分の年貢皆済目録(下書も含む)があり、それらから収支の流れを簡略にまとめたものが表6―3である。桑嶋氏の年貢米金は一五四俵一斗五升二合五勺・畑方金八両一分と永二〇九文で定着しており、定免法をとっていたと思われる。
表6―3 桑嶋氏の収支
年貢金総額 送金額 雑入用 残高 借用金・先納金等 差引残高
寛政11年 59両1分永81文 42両3分永116文 4両2分2朱永98文 11両2分2朱永117文 19両1分 -7両2分
文化11年 65両永247文 45両3分2朱永949文 8両2分2朱永821文 52両3分26文 -42両1分1貫549文
12年 59両2分永90文 56両3分永146文 9両3分永54文 50両1分永70文 -57両2分永55文
文政2年 48両永312文 36両3分2朱永124文 7両2朱永166文 79両2分2朱永160文 -75両2分2朱永139文
(注)山田賢助家・山口正太郎家伝来文書より作成。

 表中の「送金額」は、年貢金総額の内から数回に分けて桑嶋氏に送金されたもので、これが生活費に相当するのであるが、四か年いずれにも、利息金が数か所書き上げられ、これを含めた金額が「送金額」なのである。つまりは、知行所の一ノ宮村が借金をして送金に宛てていると判断されるのである。
 そして、右端の「差引残高」欄の数値を見れば、この四か年すべてが支出超過であることがわかる。文化十一年において、総支出金額は一〇九両二朱におよび、納金額の約二倍にもおよんでいる。これは、前年分の先納金として四四両一分余もあり、この先納金にも借用金があったことから利息が加算され、合計五二両三分余が先納金分として書き上げられた。結果、この年は差し引き約四三両三分が借金として残った。翌十二年には、この借金のため、さらに五七両余りを借金し、これが同年の先納金となり……、と雪だるま式に借金が増えていくことが見て取れる。このような財政状況に、桑嶋氏自身はどのように対処しようとしたのであろうか。
 文政十一年正月、一ノ宮村名主又右衛門は金一〇両の請取り念書を組頭・百姓代宛てに差し出した。地頭所(桑嶋氏)の賄い金が年々嵩んで調達できないため賄役が退役したことで、跡役を見立てるように地頭所から申し渡されたが、なかなか勤める者が見付からない。しかし、こうしていても如何なる事態が起きるかわからないので、とにかく金一五両のうち一〇両は組頭・小前達で用意した。地頭所の勝手向きが立直り次第、借用金は返済するという内容である(山口正太郎家伝来文書)。
 桑嶋氏の賄い金の使途は不明であるが、先にあげた年貢皆済目録の内訳を見ても、この正月分の送金は、他の月よりも多くなっており、物入りの時期だったのであろう。文政二年時点で借金残高が七五両余りに増え、その後の一〇年程でどう収支が変化したのかわからないが、この時期には、資金を調達し得る有力農民も限界を越えていたのである。
 文化十二年の「年貢皆済下目録」を見ると、先納金は、一ノ宮村名主平七・年寄清右衛門以下重立ちの者等が五両前後ずつ調達し、他に関戸・寺方など隣村からも借金するようになっている。
 年代が不明であるが、桑嶋孫三郎は一ノ宮村名主茂兵衛・善之助に対し、名主勤役中は一人給を与える下知状を出している(山口正太郎家伝来文書)。旗本に限らず領主側は、通常の年貢金とは別に御用金や臨時の出費を調達する有力農民層に対し、扶持を与えて家臣待遇をすることも一般的な方策であったが、彼等が金主として援助してくれる期待は望めなくなっていた。
 天保九年(一八三八)江戸城西の丸が炎上し、幕府は再建のため、御三家や諸大名に御手伝普請を命ずるとともに、旗本・御家人等幕臣一統にも知行高に応じて、上納金を課した。もちろん甲府勤番士にも上納金が命ぜられ、総額七一五両程になった。勤番士のうち、家禄一〇〇俵以上五〇〇俵以下(一〇〇石以上五〇〇石以下も同様)の者は高一〇〇俵に付金一両二分の割合であったから、家禄三〇〇石の桑嶋孫六郎は四両二分を納めている(『甲府市史』史料編第二巻』)。
 家禄三〇〇石の桑嶋氏では、贅沢などは望めようもなく、質素に暮らしていたであろうが、このように幕府から出金を命ぜられれば拒むことはできない。この四両二分もどう調達したのか。
 慶応四年(一八六八)桑嶋安之丞は、土橋新吾右衛門なる人物より金一五両を借用したが、保証人の一人は名主茂兵衛となっている(山口正太郎家伝来文書)。それまで、借金証文の借主本人は桑嶋氏であっても、直接の借主としては村側であった。それは、貸し主が領主側を当てにしておらず、「村借」の形にしないと融通しなかったからである。ところが、ここでは、桑嶋氏自身が金主を探し、土橋新吾右衛門も桑嶋本人では信用せず、保証人に名主を連名させたということになるのであろうか。