図6―8 浅井氏系図
浅井氏の歴代当主の経歴を見てもわかるように、代々小姓組番・書院番といった番方の役職に就任する家柄であった。大番・書院番・小姓組番の三番方と、この他に新番・小十人など「番方」の役職は、江戸城内や諸門番の守衛、将軍出行のときにその前後を警備し、大坂城・二条城・駿府城などに勤番し、あるいは遠国に使いとして派遣されるなど、武勇をもって奉公することを誇りとした、いわゆる「三河以来」の譜代旗本が就任する役職といえた。
旗本には、家禄が三〇〇〇石以上の寄合と呼ばれる上級旗本とそれ以下の小普請(御目見以上)があった。旗本が家を相続すると、まずこの寄合・小普請どちらかに組み入れられ、その後役職に就いていくが、中級クラスの旗本が最初に就任するのが、書院番・小姓組番であった。そして、これをきっかけに昇進していくことになる。
こうした番士の昇進コースでは、書院番・小姓組番→使番・徒頭→目付→遠国奉行→勘定奉行→町奉行というのが順調な出世コースとして挙げられるが、浅井氏の当主を見ると、小右衛門元武が徒頭から先手鉄砲頭に進み盗賊追捕を兼務している。先手鉄砲頭というのは、江戸城平川口・紅葉山下門・坂下門等の諸門に交替で警衛し、将軍が寛永寺や増上寺に参詣の節には両寺の警備にあたることなどを職務とし、役高は一五〇〇石であった。また、盗賊追捕とは盗賊火付改(火付盗賊改ともいう)のことで、先手頭(鉄砲組・弓組があった)の内から選ばれて加役として勤めるもので、与力・同心を率いるために役料・役扶持が支給された。
先手鉄砲頭を勤めた者の後職をみると、在職のまま死去する例が多いことがわかる。また、西の丸留守居や鎗奉行といった、長年怠り無く職務を果たし褒美の意味合いのある役職に転じる例も多く、勘定奉行や町奉行といった幕府の中枢に栄進していく役職とはいえない(『大日本近世史料』柳營補任三)。先手頭は、「この場は、武勇の誉れある人の勤め場なり」(『改定史籍集覧』第十一冊所収「明良帯録後篇」)といわれたように、番方の家筋の中級旗本が勤め上げる役職の一つであった。
家禄六〇〇石程の浅井元武が、役高一五〇〇石という格式を持つ役職に就任したのは、紛れもない出世で、浅井家はこの頃が絶頂であったかもしれない。
浅井氏の財政状況を知る手掛かりとして、天保五年(一八三四)十月の年貢割付帳をまとめたのが表6―4である。四か村の村高合計六〇二石余りのうち、年貢高は取米一三四石三斗・取永四九貫五八四文となっている。年貢収納時に、江戸城に張り出された幕府の公定米価を張紙値段といい、旗本等はこの張紙値段により、年貢米を換金するのである。試みに取米一三四石三斗を金に換算すると、天保五年の張紙値段(十月値段)は、一〇〇俵(三五石)に対して四一両となっているから(土肥鑑高『近世物価政策の展開』所収の「近世米価表」による)、一五七両余りとなる。取永四九貫五八四文を、単純に一貫文=一両とすると約五〇両となり、合計二〇七両余りとなる。大雑把であるが、この金額が浅井氏の収入である。
村名 | 村高 | 取米 | 取永 |
清水村 | 326石 | 43石4斗1升1合 | 33貫667文 |
下田村 | 151石5斗1升6合 | 56石8斗 | 4貫917文 |
中和田村 | 95石1斗 3合 | 22石9斗 3合 | 6貫381文 |
寺方村 | 29石3斗4升4合 | 11石1斗9升 | 2貫618文 |
計 | 601石9斗6升3合 | 134石3斗 4合 | 49貫584文 |
込高六〇〇石余り(表高五四〇石)の家禄の浅井氏は、無役の小普請ならば、小普請金一二両を幕府に納めればよかったから、二〇〇両余の収入があれば、職務を勤めていくうえでの出費は最小限にくい止どめられようから、前述した旗本桑嶋氏のような〝台所が火の車〟という状況にはならないはずであろう。しかし、先に述べたように、浅井氏は目覚ましい活躍をした当主はいないが、代々書院番や小姓組番に就任するのが常であり、無役の小普請のままで一生を終えるのは体面的にも耐えられるものではなかった。だからといって、座していても役に就けるわけではない。何千人といる小普請の中から役職に就こうと思えば、彼等の就職願を受付ける組頭(小普請支配組頭)や小普請全体の監督者である小普請支配(上級旗本が就任する)に常日頃から挨拶や付け届けをしなければならなかった。そして、一種の猟官運動のすえにうまく役職に就任できたとしても、任務や体面保持のために、支給される役料以外にも出費が重なってくる。しかし、収入源は先祖以来変わりはない。以上のような、浅井氏の役職面ばかりでなく、日常生活においても家来や家族の衣食や給金・小遣いなどにも、当然費用を確保しなければならない。
収入が一定しているのに支出が増大していくならば、赤字になるのは当然のことである。このときに旗本領主が持ち出すのが御用金の賦課であった。こうした旗本の財政難の問題はあちこちに見られ、御用金賦課はもとより、幕府の公金貸付け所からの借金、翌年の年貢を前借りするなど、あらゆる方策で〝その場凌ぎ〟を計らざるを得なかった。
天保七年(一八三六)八月、知行所清水村・下田村・中和田村・寺方村四か村の村役人一同から、地頭所に対して嘆願書が差し出された(資二社経38)。それ以前に地頭所から、知行所村々の名主等一同が江戸屋敷に呼び出されたうえで申し渡しがあった。それは、浅井氏の新規の主法(政策)であったが、四か村は困窮であるうえ村役人一同だけでは請けがたく、帰村のうえ村役人立ち会いで村人一同相談のうえ、嘆願したものであった。その内容は、
(1)これまで一年の暮方(生活費・財政)は、年貢高を幕府の勘定所にて金に換算して四か村で高割りしていたが、年々臨時金が多くなり、年貢金だけでは不足するようになったので、翌年の年貢分を何とか名主共が才覚して先納という形でやってきたが、そのようなことでは、勤め方(勤務・御用)の備えもできず、出精の妨げになる。
また、家禄に不相応(不釣合)であるという世間の噂をも受け兼ねないであろう。とくに今年は、天候不順が重なり、四年ほど以前より不作が続いているので、「田舎」の金主が少しも金を貸してくれない。このようなことでは、名主一同退役するしかないから、殿様には、「江戸」の金主を見付けて召し抱えるようにしたらどうか。
(2)四か村から月番で名主が一人ずつ地頭所へ詰め、入用筋を勘定している。しかし、殿様は、当時は御番入りもなく、小普請である。近頃は、諸大名・旗本も全体に省略し、人減らしをしていると聞く。殿様にも名主を定詰させることは不益(無駄)であるし、用人を勤められる侍を召抱えたらどうか。
(3)地頭所は、これまで用向きその他を清水村へ申し遣わしていたが、今後は四か村が一か月ずつ交替する心得で、相互に世話行届くようにするというが、これは全く大村・小村の分別を無視したものだ。小村では引き受けられないこともある。清水村→下田村→中和田村→寺方村の順で触宛てていたのであるから、これまでの通り清水村がまず請け、その後他の三か村へ触れ宛てるように願いたい。
(4)江戸金主を召抱えろとは、甚だ言いにくいが、当正月より八月まで、仲間体の者や町飛脚の者が四か村を順に回って、一里百文の勘定で現金を引立て、さらに酒代を強要する者もあり、地頭所で一九度、隠居様で六度、郡代で二度、合計二七度、一度に一貫としても二七貫もの出費である。
(5)四か村は日野宿組合で、村々寄合いのときに聞くと、名主共が地頭所へ月々割合差し出している村はない。三季上納以外に名主が江戸へ出府することもないし飛脚もない。隣村の和田・山角・曽我・高井・前田といった旗本等も江戸の金主を召抱えているという。
以上のような嘆願内容となっている。この嘆願書は、浅井氏の新規の主法に対する村側の総意を述べているものなので、浅井氏がどのような要求を新たに出したのかはっきりしないが、やはり年貢金以外の臨時金・御用金等の確保ということが大前提になっていることが窺える。その一番の争点は、(3)に述べられている清水村の位置ではないかと思われる。浅井氏の知行所四か村の内、清水村が村高三二六石と最高である。そればかりでない。浅井氏が多摩市域と関わりを持つはるか以前、徳川家康に従って江戸にやってきた浅井氏の祖元近は、豊島郡に五〇石の采地を与えられ、慶長九年(一六〇四)に死去したが、葬られたのは多摩郡清水村(東大和市)の成就院であった。そして、寺方村・和田村を知行することになる七平元忠、その父元久も成就院に葬られているのである。浅井氏にとって、清水村は由緒ある地として知行所村でも特別であった。嘆願書にもあるように、浅井氏の家政は清水村から他の三か村へ順次降りて行ったのであり、清水村さえ取り込んでいれば安心できた。
それが破綻したのではないか。清水村から、領主の度重なる臨時金・御用金の上納要求に、これ以上保証できないという意思表示が出されていたのかもしれない。また、天保三年の百姓一揆に際しては、浅井邸に門訴が起こされており(『角川日本地名大辞典』東京都)、浅井氏と清水村との信頼関係が失われつつあったとも考えられる。
いずれにしろ、清水村を当てにできなくなった浅井氏が、他の三か村に対し清水村同様に御用向き勤めるよう要求したことに村側が反発したのが、この嘆願書となったと思われる。
天保七年当時、浅井氏の当主は元定である。元定は、嘆願書にも出てくるように、小普請組で無役であった。代々の当主は書院番や小姓組番に就任しているのであったが、元定の父元豹が、文政二年(一八一九)閏四月に不行跡により隠居差控えを命ぜられた。これにより元定が浅井家を相続したのだが、差控えは許されないままの家督相続であった。譜代の旗本としては甚だ不名誉なことである。しかし、まもなく同年六月差控えが許された(資二社経34)。ところが、天保七年八月の嘆願書一件の直後の十月、元定は小姓組へ番入が決まったのである。浅井氏が主法替え、つまり自家の政策転換を打ち出した直後に、小普請という無役から小姓組番士に就任できたことになる。嘆願書一件の結末は不明であるが、浅井氏に幸運をもたらす結果に落着いたのであろうか。
しかし、小姓組番士に無事就任したことで安心したわけではあるまいが、元定は天保十年十一月二十二日病死してしまう。同十二月、知行所四か村は高一〇〇石に付金三両の割合をもって、浅井氏に弔意金を納めた(<史>石阪好文家伝来文書)。