関戸郷の解体

809 ~ 812
中世後期から近世に移行する時期、多摩市域には「関戸郷」と呼ばれた地域が存在していた。この「郷」という単位は、近世の村よりも広い領域を示す呼称で、関戸郷の近隣にはこの他にも「連光寺郷」「小沢郷」「小野路郷」といった郷が存在していた。関戸郷をめぐる詳細な検討は、第五編第三章第二節を参照していただくことにして、ここでは、中世後期から近世初頭にかけての、関戸郷の地域的な状況について触れ、さらに関戸郷の近世的な変容の問題を見ていくことにする。
 ところで、関戸郷と呼ばれた地域の範囲については、必ずしもすべてが判然としているわけではない。江戸時代後期に成立した『新編武蔵風土記稿』(以下『風土記稿』)では、市域の寺方村・和田村・貝取村に落川村・百草村(以上日野市)を含んだ地域としている。また、やはり同じ時期に成立したと思われる、伊野弘世家に伝来する「関戸旧記」という史料には、「関戸の寸土は小山田落城の上、山角牛太郎拝領有りて、千石余の処後如何なる子細有てや百草村・下落川村・貝取村・寺方村分郷して今五百石となる」とあり、村名についてはほぼ同様の見解を示している。この他、乞田村や中河原村(府中市)も関戸郷に含まれていたという指摘もある。乞田村については、もともと貝取村とともに一村であったという伝承があり、中河原村に関しては、多摩川の流路の変化の問題が関係しているということになろう。
 中世後期の関戸郷は後北条氏の直轄領で、家臣の松田氏が代官としてこのうち五〇貫文の地を管轄していた。後北条氏は、小田原を本拠地とし、駿河の富士川以東から伊豆・相模・武蔵・上総・下総にいたる範囲を領国として組織し、八王子や川越・岩槻・忍(行田)・鉢形(寄居)などに支城を置いて、領国経営を展開していた。とくに、軍事的編成としての伝馬制度の充実とともに、領国内の経済を掌握するために、各地に六斎市を積極的に設置していった。第五編第三章第二節に、戦国時代における関東の六斎市の存在状況を示した図がある。六斎市は、在地の経済発展を背景に、各地に立てられていたが、後北条氏はこのように小田原と各地の支城を結ぶ交通の要地を中心に、六斎市を設定していったのである。
 六斎市とは、月のうち六日開かれる定期市のことで、後北条氏による六斎市開設の政策意図は、領主に年貢を納入するために貨幣を入手する場を設けたという説や、逆に納入された年貢を販売するために設けたという説などがある。しかし、一般の民衆の経済的な成長がその背景に存在していたことを忘れてはならないだろう。
 このような状況の中で、関戸郷には永禄七年(一五六四)九月に六斎市が設置され、毎月三と九の日(三日・九日・十三日・十九日・二十三日・二十九日)に、濁酒と塩あい物の自由な販売が認められた。これは、後北条領国の中でも早い時期の設置であったといわれているが、それは、越後上杉氏を中心とする北関東の反後北条勢力との対抗の中で、関戸郷が小田原から多摩川を越えて、武蔵北部・上野南部にいたる交通の要衝として存在し、軍事的にも重要な拠点であったためである。
 一方、関戸郷内には、有山源右衛門など小領主的な有力者が六人存在したとされ、とくに有山源右衛門は問屋として、関戸郷に賦課されていた伝馬の管理や商人たちの差配を行っていた(筏井緑「関戸古文書と松田左馬助」『郷土たま』四)。また、多摩川を隔てて対岸にある中河原村に新宿を立てる権利も与えられ、文禄三年(一五九四)に徳川氏によって行われた検地の際には、地元の案内者として登場するなど、関戸郷の中心的な存在であった。さらに、彼の居住していたとされる地域をとくに「有山村」と呼び、後述するように、独立した立場で連光寺野へも入り会っていることなど、中世後期から近世への移行期にかけて、交通の要所としての関戸郷の位置を背景として、有山源右衛門が大きな影響力をふるっていたことが知られるのである。
 天正十八年(一五九〇)七月に、豊臣秀吉の軍勢によって後北条氏が滅ぼされ、八月に徳川家康が関東に入ってくると、徳川家臣団への知行割りが行われることになるが、関戸郷の地域は、天正十九年に、もと後北条氏の家臣で、後北条氏の滅亡後徳川氏に迎え入れられた山角牛太郎定吉に与えられることになった。山角氏に与えられた知行高は、関戸郷に一〇五〇石とされているが、この一〇五〇石が関戸郷の全体を意味しているという保証はない。中世的な郷から近世の村が分立していく過程で、それぞれの村の境界が多様に変化していったであろうことを考えれば、近世の村の集合がかつての郷の範囲と一致することはあり得ないだろう。
 ある史料によれば、山角氏の知行地は表6―5の村々であったという。このうち、乞田村には貝取村が含まれるとされ、また寺方村は乞田村と落川村の二五〇石の内から分立したといった説があるが(資二社経73)、しかしこれは、後述する入会争論にかかわって主張されたものであるため、真偽の判定には慎重を要する。なお慶安二年(一六四九)に作成された『武蔵田園簿』によって確認される山角氏の知行所は、表6-6のごとくである。これらの村々を図6―10と比較してみると、関戸郷のすべてではないかもしれないが、その多くの部分を、もと後北条氏の家臣であった山角氏が、後北条氏支配の跡を受け継ぐ形で、新たに知行することになったといえるだろう。
表6―5 関戸郷における山角氏知行の内訳
村名 知行高
関戸村 500石
百草村 300石
落川村・乞田村 250石
1050石
(注)資二社経73より作成。

 
表6―6 『武蔵田園簿』にみる山角氏知行所
村名 知行高
和田村  68石6斗5升6合
寺方村 138石8斗2合
落川村  94石3斗3升8合
関戸村 198石2斗4合
合計 500石
(注)『武蔵田園簿』より作成。


図6―10 郷の解体
(注)安澤秀一『近世村落形成の基礎構造』より作成。

 このように、中世後期まで存在していた関戸郷は、後北条氏の滅亡と、それに続く山角氏への知行あてがい、さらに「村切り」と呼ばれる政策、すなわち検地による新たな近世村としての村域の決定と、百姓がどの村に帰属するかという二つの点についての確定作業を経ることによって、その姿を消すことになるのである。