これまで見てきたように、村の領域の形成が、新たな村落間の争論を引き起こすことになったわけであるが、これらの動きは、実は、村の中での個々の百姓の自立への動きや、それを基礎とした村の結合のあり方の変化など、村内部におけるさまざまな構造の変化が、重要な要因として強く作用していたのである。ここでは、この点について、連光寺村を例として、その具体的な様子を見ていくことで、近世的な村の形成という動きの内実にせまっていくことにする。
連光寺村は、戦国期に今川氏の家臣であったとされる富澤氏が、今川氏の滅亡によってもと北条氏の馬飼場であったという連光寺郷に定住し、逃散した百姓を集めて開発したものとされている。この開発を受けて、徳川家康の関東入部の後、慶長三年(一五九八)に検地が施行されている。その時に作成された検地帳は現在まで富澤政宏家に伝わっており、この検地帳によって、開発当初の連光寺村の姿を知ることができる。
この検地帳では、全部で九〇人の名前を見ることができるが、これら全員がすべて同じ立場の人間であったというわけではなかった。この検地帳では、「分付記載」と呼ばれる形式が用いられている。検地帳には、基本的に一筆ごとの土地について、田畑などの区別と等級、そしてその石高および広さと、その土地を所持し、耕作している人間などが記載されているが、この「分付記載」というのは、土地の所持や耕作に関して、その土地を所持する者(分付主)と実際にその土地を耕作する者(分付百姓)を明記する記載方法である。たとえば、検地帳に「何某分誰作」という記載があれば、これは、「何某」の所持する土地を「誰」が耕作しているということを表しているのであるが、このような記述により、土地の所持とその耕作をめぐる村内の関係を見て取ることができるのである。
そこで、この「分付記載」から慶長三年当時の連光寺村の構造を見てみると、検地帳に記載された九〇人の百姓の中で、「何某分」にあたる分付主(土地の所持者)は、わずか五人を数えるのみである。この五人の内の一人である修理という人物は、村の開発の主体となった富澤氏で、連光寺村の惣反別の四割ほどを所持しており、いわば小領主的な存在として連光寺村に君臨していた。また、同じく分付主として登場する玄蕃という人物は、富澤修理の妹と結婚しており、この二人の所持地を合わせると連光寺村全体の五割二分に達している。また、分付主五人全員にまで視野を広げれば、その所持地は連光寺村の八割六分までを占めているのである。
このような中にあって、その他の百姓は、自分の所持地のみを耕作するものや、自分の所持地とあわせて分付主の土地も耕作しているもの、さらに自分の土地を持たずに分付主の土地のみを耕作するものなど、村内にはさまざまな立場の百姓がいたのである。なお、和田村の文禄検地帳および分付記載の分析については、第三節を参照されたい。
すなわち、この時期の連光寺村の構造は、富澤修理を中心とする幾人かが中世の連光寺郷の小領主的な存在として君臨し、慶長検地によって地侍的な立場から農民としての立場に移り、分付主として連光寺村の土地の大半を所持する一方、何らかの形でその土地を耕作することによって、大かれ少なかれ自分たちの生計を補填するという百姓が多くいるという形をとっていたのである。
このような構造は、その後次第に変化を見せ始める。そのおおよその傾向は、富澤家など中世の小領主的な存在を中心とした、いわばピラミッド型の村落構造から、その束縛から抜け出し自立することによって、ほぼ同程度の規模の土地を所持・名請けすることになった百姓が頭を並べるという、並列型の村落構造へと移っていくというものであった。その変化の時期は、慶長三年から六〇~八〇年を経た万治~延宝期で、この時期には耕地反別の増加もにぶり、また村における人口増加も停滞し始めるといった形で、村の成長にかげりが見え始めるのである。
しかし、こういった村落構造の変化は、逆に近世的な村としての連光寺村の実質的な成立を示すものでもあった。すなわちこのような変化は、連光寺村をめぐる地理的条件や生産的条件など、さまざまな条件に規定された中で、村としての枠組みがひとまずできあがったということであり、また、それまでの小領主を中心とした村から、そこに居住する百姓が自立して結合する場としての村へという変化でもあったのである。
このような村落内部の動向は、先に述べた入会争論などへの対応にも微妙に影響することになる。先述した連光寺野をめぐる連光寺村と札下村との争いなども、中世的な小領主からの自立を進めている百姓たちの、生産力の安定という欲求を背景とした強力な結合によって、原野に対する村としての精力的な働きかけを生みだし、排他的な行動をとらせたのである。この時期、他の多くの村で発生したこのような野論や境論は、多かれ少なかれ同様の背景を持っていたといってよいだろう。そしてそれは、近世的な村の成立という動きと深くかかわっていたのである。