まず最初に、「原関戸村」が山角氏の知行地であることは、たとえば「山角磯之助様御知行所同州同郡(武蔵国多摩郡)原関戸村」(〈史〉佐伯遵家伝来文書247)といった表現が出てくることからも確認される。また、「原関戸村」が寺方村に属していたことも、たとえば『武蔵田園簿』(寺方村に曽我・浅井両知行所ができる以前の史料)によれば、寺方村は山角氏知行一三八石八斗二合と天領五三石八斗二升であったとされていることや、『元禄郷帳』の寺方村の村高が二〇九石余と、曽我・浅井両知行分に山角知行分を含めた数値になっていることなどから明かである。
それにもかかわらず、「原関戸」が関戸村の小名であるといった説が生まれたのは、一八世紀初めに幕府によって編まれた『風土記稿』の記述に、「原関戸」が関戸村の小名であると記されていることと関連するようなので、この問題について、ここで取り上げることにしたわけである。
まず最初に、『風土記稿』の寺方村の記述を見てみると、家数は一四軒で、寺方村の西は「原関戸」に接しているとされている。また支配の変遷は、正保の頃(一六四四~一六四八)は高室喜三郎が代官として管轄する幕府領と、山角藤兵衛の知行地であったが、元禄三年(一六九〇)に村内を割いて松平清三郎に与えられ、さらにいつの頃からか浅井楯之助と曽我七兵衛助弼の二人の知行所となったと記されている。
これらの記述は、果たして正しい寺方村の姿を伝えているだろうか。まず、家数について見ておこう。天明六年の「原関戸村」の宗門人別帳(杉田卓三家伝来文書箱10―67)には、家数が二七軒・寺二軒の合計二九軒が記載されており、また、寛政四年(一七九二)に作成された「原関戸村」と見られる百姓の連印(同家伝来文書箱1―16―10)には、三〇人が名を連ねている。寺方村には「原関戸村」の他、曽我・浅井両知行所があるにもかかわらず、すでに「原関戸村」だけで『風土記稿』に記載されている数値をはるかに上回っていることは不自然である。
一方、曽我・浅井両知行所の家数はどのくらいであったかというと、たとえば、後述する寛政七年(一七九五)の曽我知行所と浅井知行所との、村のしきたりをめぐる争いの史料の中に、「当村の儀は高六〇石余にて百姓家数一四軒これ有り」(資二社経126)とあるが、高六〇石余が、まさに曽我・浅井両氏の知行高の合計であることを考えれば、この二つの知行所の家数が当時一四軒であったことが知られる。すなわち、『風土記稿』のいうところの家数一四軒というのは、寺方村全体ではなく、曽我・浅井両知行所の分だけを示していたのである。ところで、多くの場合、この曽我・浅井両知行所をあわせて寺方村と称していることから、ここでは山角知行分も含めた近世村としての寺方村と区別するために、曽我・浅井両知行所を示す場合には、以下「寺方村」と記すことにする。
それでは、「風土記稿」における関戸村の記述はどうであろうか。家数に注目してみると、「民家六八軒三所に分れ住めり、村の中央小名有山に住するもの八軒、西の方原関戸と云処にあるもの二〇軒、東南の方小名本村にあるもの四〇軒なり」となっている。すなわち、ここでは先述したように「原関戸」は関戸村の小名として扱われているのである。またこのため、当然のことながら、「原関戸」にある宝泉寺や観音堂も関戸村の項に記載されている。
関戸村の家数について、さらに少々時代は下るが、明治三年(一八七〇)の戸籍によれば、関戸村の家数は四一軒となっており(〈史〉富澤政宏家伝来文書1738―30)、『風土記稿』の家数に比べると二七軒も少なくなっている。ちなみに、寺方村の明治初年の家数は、明治三年の明細帳では四三軒(〈史〉佐伯遵家伝来文書11―1)、明治四年の「身元金御上納名前書上帳」という史料(同家伝来文書192)では四五軒となっており、明治三年の寺方村の戸籍によれば(同家伝来文書17―1)、寺庵五軒を含めて五〇軒であるという。すなわち、関戸村と寺方村の家数の関係を整理してみると、明治初年における寺方・関戸両村の家数に比べると、『風土記稿』における家数は寺方村が三〇数軒少なく、逆に関戸村が二七軒多くなっており、『風土記稿』における関戸村と寺方村の家数の記載は、他の史料で確認される家数とはかなり違っていることになる。
時代的な違いがあるため、家数の数値が完全に一致することはないが、このように見てくると、やはり『風土記稿』における寺方村と関戸村の記述の関係に、何らかの誤りがあると考えざるを得なくなる。その誤りとは、まず「原関戸」を寺方村ではなく関戸村の小名としてしまったことにあった。しかし、『風土記稿』での「原関戸」二〇軒をそのまま寺方村の家数に組み込んだとしても家数は総計三四軒で、明治初年の寺方村の家数とは大きな相違を見せているし、天明六年の宗門人別帳の「原関戸」の家数二九軒とも合わないなど、それぞれの家数の違いが完全に整合されたとは言えない。
天明六年の宗門人別帳の家数を信じるとするならば、ここで注目されるのは、『風土記稿』の関戸村の記載に見られる「有山に住する者八軒」という記載である。すなわち、関戸村の家数に出てくる「原関戸」二〇軒と「有山」八軒を合計すると二八軒で、天明六年の「原関戸」の家数ともおおよそ符合するし、寺方村全体の家数も四二軒と、明治初年の家数に近づくことになる。一方、この二八軒を抜いた関戸村の家数は四〇軒となり、これも明治三年の関戸村の家数四一軒とほぼ符合することになるのである。
このように考えてくると、『風土記稿』で関戸村とされている「原関戸」のみならず、「有山」も実は寺方村の小名であったことになる。「有山」は、中世後期に関戸郷の有力者であった有山源右衛門が居住していた地とされ、近世初期には連光寺野に「有山村」として独立して入り会っていることなどが確認されるが、史料的な制約もあって、その具体的な姿については不明な点が多いのが実状である。
そこで、「有山」にある観蔵院の史料上の記載から、若干ではあるが「有山」の所属の問題について見てみると、享保十二年(一七二七)の「原関戸村」の名寄帳に、観蔵院の名が見えるし(杉田卓三家伝来文書箱10―85)、天保十四年(一八四三)の寺方村の明細帳にも宝泉院とともに観蔵院が記載されている(同家伝来文書箱7―54)。さらに杉田卓三家の史料を通覧すると、「有山村観蔵院」という表現とともに、「寺方村観蔵院」あるいは「原関戸村観蔵院」という記述がみられることから、「有山」は寺方村、しかも「原関戸」に含まれていたことが確認されるのである。ちなみに、「関戸村観蔵院」という表現がこれまでのところ確認されていないという点も、「有山」が関戸村の小名ではないということの証しになろう。このように、「有山」が「原関戸」に含まれているとすれば、先の家数の疑問も解決されるし、諸史料の記述についても統一的に理解することができるようになる。
図6―12 有山観蔵院
「原関戸」および「原関戸」に含まれる「有山」が、関戸村の小名であるとする記述は『風土記稿』のみに見られるものであり、『風土記稿』のこのような誤りが後世の混乱の基となってしまった。『風土記稿』には、寺方村の西は「原関戸」に接しているとの記述があるが、「原関戸」が関戸村の小名であるとするならば、関戸村は寺方村の東に位置しており、地理的な点から見ても齟齬を生じることになる。もちろん、「原関戸」が関戸村の「飛地」であったという話もない。
ところで、「原関戸村」はもともと「原村」と呼ばれていたという(伊野弘世家伝来文書248)。何ゆえに「原村」が「原関戸村」になったのかという点は、実に大きな問題であるが、これは、和田村のやはり山角知行分で、後述する「関戸並木」をも含めて考える必要がある。『風土記稿』によると、中和田村の記事中、隣接する村をあげた箇所は「東は和田(上ケ和田)百草及び落川新田原関戸の五村」となっている。この記述からすると、村数からして「原関戸」を「原」と「関戸」の二村と見なしているふしがある。あるいは「原」を「原関戸」とし、「関戸」は関戸村を指しているともとれるが、先述のように関戸村は寺方村から見て東にあり、寺方村の項では、東に隣接する村は関戸村であるとはっきり書かれていることからも、『風土記稿』が「原関戸」を、「原」と関戸村とは異なる「関戸」として捉えていることは確実であると思われる。ただし、『風土記稿』の上ケ和田村の記述には、「川部八村」として「百草中和田寺方落川関戸原一ノ宮及び当村(上ケ和田)」とあり、ここでは「関戸」と「原」を分けている。
しかし、このような捉え方をしているのは、「原関戸」に関する記述が出てくる村のうち、上ケ和田・中和田・寺方・一ノ宮の各村の場合で、一方、やはり「原関戸」が出てくる関戸村の記述には、この捉え方は当てはまらない。関戸村の項では、「原関戸」は一つの小名として捉えられているのである。この「原関戸」に対する捉え方の相違は、どのようにして生まれたのであろうか。これらの問題は、和田村の「関戸並木」が、もともと「並木村」と称されていたらしいということなどを含めて考えることによって、関戸村と「原関戸」をめぐる問題は、おおよその結論が得られるように思える。
すなわち、山角氏がかつての関戸郷の地に一〇五〇石を知行した時に、関戸村に山角氏の知行所が誕生した。一方、寺方村については、寛永十四年(一六三七)に新たな村の開発が行われる以前に、この山角知行所が「原村」という村名とは別に寺方村という村名を称していたかどうかは、史料的に確認はできないが、しかし、この新開地が幕府領となることで、新たに幕府領としての「寺方村」が形成されたことは確実であり、これによってそれまでの山角知行分は明確に「原村」として位置づけられることになり、そして、この二村によって寺方村という一つの行政村が生まれることになったと見てよいだろう。すなわち、公的な場合は別として、村の中や近隣の村の間では、一般に寺方村といった場合は、幕府領および浅井・曽我両知行所としての「寺方村」を意味し、これに対して山角知行所を「原村」もしくは「原関戸村」と呼んでいたのである。次いで、和田村の場合は、山角氏と同じ時期に、やはり後北条の遺臣である山中氏が知行地を和田村に得ており、ここに、和田村の中に上ケ和田村や「並木村」、さらに幕府領としての中和田村といった区別が生じたと考えられる。
最初は一〇五〇石であったこの地域における山角氏の知行高も、叔父など一族への分割によって、結局前掲表6―6のように、関戸・和田・寺方の多摩市域の三か村と、落川村(日野市)の計四か村で合計五〇〇石にまで減っている。このうち多摩市域の三か村はともに隣接しているため、それぞれの知行所も村ごとに独立しているというよりは、互いに一体のものとして意識されていたのであろう。とくに、関戸村の山角知行分は一九八石余と四か村の中で最も多く、中世に遡ってみれば、軍事や交通の要所として、後北条氏によって六斎市も立てられていた関戸郷という名称の伝統の中で、この地域の中心と見なされており、その意識が「原村」や「並木村」といった他の山角知行地も、しだいに「原関戸」や「関戸並木」と「関戸」をつけて呼ばれるようになり、ついには『風土記稿』によって、「原関戸」およびこれに含まれている「有山」が関戸村の小名として捉えられてしまう結果となったのであろう。
一方、他の村にとっては、「原関戸」がもともと「原村」であったという意識はその後も残っており、寺方村に含まれるとはいえ、一つの村としての意識が当時の人々には強くあったと考えられる。このような「原関戸」に対する二つの捉え方が、関戸村の記述では、「原関戸」を関戸村の小名にしてしまったとともに、他の村々の記述では、「原村」という意識のもと、「原」と「関戸」を区別して捉えてしまうことにもなったのである。
『風土記稿』の編纂にあたっては、とくに多摩地域の場合、八王子千人同心らが村を廻村し、村から差し出された資料や聞き書きをもとに行われたとされている。その際に、どのような過程で、こういった間違いが発生したのかは明らかにはできないが、ある面では、村側のこのような微妙な意識の違いを、編者が十分に読みとることができなかった可能性も考えられるのである。