「関戸並木」について

828 ~ 830
和田村四三五石余のうち、六八石余の山角知行地が「関戸並木」にあったことを先に指摘したが、次に、知行所と村という視点から、「関戸並木」を取り上げ、さらに近世村落の形成の問題を考えていく手だてとしたいと思う。
 ところで、この「関戸並木」については、『風土記稿』にもその名称は見られず、史料的な制約からその実態の解明はきわめて難しい状態となっている。「関戸並木」が、かつて「並木村」と呼ばれていたことは先述したが、和田村には「関戸並木」の他に「原並木」という地名もあり、とくにこの「原並木」に関する史料は、ほとんど確認されてはいない。たとえば、「原並木」も山角の知行所であったのかどうかといったことも含めて、これら三者の関係がはっきりしていないのが実状である。このような中、取りあえず「原並木」の問題は後証を待つこととし、わずかではあるが、史料的に確認することのできる「関戸並木」について、可能な範囲でその姿を浮かび上がらせていきたいと思う。
 まず、基本的なこととして、家数の問題を見ていくことにしよう。和田村全体の家数は、明治三年(一八七〇)の和田村明細帳には五〇軒と記載されている(資二社経41)。一方、『風土記稿』では上ケ和田二八軒、中和田九軒の合計三七軒となっている。ところで、『風土記稿』では、上ケ和田村と中和田村の記載はあるが、山角知行地についてはいっさい触れられていない。先の寺方村と同じく、ここでも山角知行地が抜け落ちてしまっているが、「原関戸」のように他の村に組み込まれてしまっている様子もなく、その存在は抹殺されてしまったかのようである。こうなると、『風土記稿』での山角知行地の扱い方は、看過することのできないいろいろな問題を含んでいるようにも思えるが、ここでは指摘するだけに止めておくことにする。
 さて、話を家数の問題に戻すと、和田村は、明治に入っての旗本知行地の上地にともなって、旧和田氏知行地の上ケ和田村が上組、旧浅井氏知行地の中和田村が中組、旧山角氏知行地が下組となるが、全体で五〇軒であるならば、数値の時代的な変化を考慮しないで単純に計算すると、旧山角知行所の家数は一三軒ということになる。民俗調査の成果によると、「関戸並木」の家数は、かつては九軒ぐらいで、現在では昔からの家は一二軒ぐらいであるとしているが(叢書(1)一六二ページ)、おおよそ首肯し得る数値といってよいだろう。ちなみに、同じく民俗調査を参照するならば、「原並木」の家数は、かつて二四~五軒であったとされている。とすると、家数からだけみれば、「原並木」は上ケ和田村に相当することになるが、今はこれ以上の言及は差し控えなければならない。
 なかなか明確な姿を現さない山角知行所「関戸並木」ではあるが、しかし、領主がいて、その領主に属する百姓がいるならば、必然的にそこには年貢徴収などをはじめとした、現実的な支配関係が存在していたはずである。では、その「関戸並木」の具体的な村落運営とは、いったいどのようなものであったのだろうか。
 「関戸並木」という地名が登場する史料はいたって少なく、それが「関戸並木」の実態を不明瞭なものとしていることは先述したが、わずかに散見される「関戸並木」の史料の中で注目されるのが、和田村の山角知行所分(=「関戸並木」)が、「関戸村之内和田村」(峰岸明男家伝来文書133)あるいは「関戸村和田組」(同家伝来文書176)などと表現されていることである。このことは、「関戸並木」のどのような状況を表しているのであろうか。
 この問題を考えるときに重要なのは、和田村の山角知行所には、独自の名主が置かれていなかったということである。村の名主が置かれない場合、相給の村ならば通常、第四節で述べる寺方村の例のように、同じ村の中の他の知行所の名主が兼帯するということになるのであるが、「関戸並木」の場合は、実は同じく山角氏の知行地である関戸村の名主が「関戸並木」の名主も兼帯し、年貢の徴収などを取り扱っていたのである。同じ山角氏知行の「原関戸」には名主などの村役人が置かれているので、地理的に考えれば、隣接している「原関戸」の名主が「関戸並木」の名主を兼任すればよいように思えるが、あえて関戸村の名主が兼任しているところに、山角知行所全体における関戸村の位置が示されていると言える。
 このように、同じ和田村といいながら、「関戸並木」は上ケ和田や中和田よりも、ともに山角氏知行の村ということのつながりの方が多かったと考えられる。これは「原関戸」との関係にもいえることで、質地証文などの証人として「原関戸」の人間が名を連ねるといった場合もまま見られるのである(峰岸明男家伝来文書28)。「関戸並木」のこのような状況が、本来和田村に属している筈の「関戸並木」を「関戸村之内和田村」や「関戸村和田組」といった形で表現する背景となっていたといえよう。
 近世の村が、領主によって行政的に設定されたということを最初に述べたが、この「関戸並木」の問題などを見てみると、近世の村としてのまとまりとはいったい何であったのかという思いが生まれてくる。第四節で触れる連光寺村の事例でも明らかなように、同じ村に属していても、領主の問題や地理上の問題などさまざまな状況の中で、それぞれの結びつきが微妙に揺れ動いていたというのが、近世の村の姿だったのである。