近世社会は、農業中心の社会であった。したがって、主に農産物を対象とした年貢の授受が、経済生活に大きな影響を与えていたのである。領地を支配する領主にとっても、支配される村々の人々にとっても、年貢は重大な関心事であった。
この年貢の納入には、明確な基準が設定されていた。それは、年貢の収納量を可能な限り最大にしようとする領主側と、その反対に可能な限り最小限にしようとする農民の双方にとって、自らの主張の正統性を証明する根拠になるからである。それゆえこの基準の設定は、領主にとっても農民にとっても最重要課題だったのである。
そうした状況下で、領主・農民ともに納得のいく基準設定のために行われたのが土地の調査であり、一般に「検地」と呼ばれるものであった。土地の調査は、古く奈良時代から行われ、中世期は「検注」などと称されていたようであるが、秀吉の統一的な調査以降、江戸時代に入っても実施された基準設定のための土地調査をさして、「検地」という呼称が用いられた。
「検地」については、近世中期の寛政年代に刊行され、勘定所や代官所の役人をはじめ、名主等の村方役人にも利用された『地方凡例録』に次のように記されている。
「検地は土地の経界(けいかい)を改め正すの総名(そうめう)にして、田畑に竿縄(さをなは)を入れて反別(たんべつ)を改め、土地の位を糺し、石盛を附け、石高(こくだか)を定る法にして、国の盛衰民の安危(あんき)にも係(かか)ることなれば、其理を弁へ其事に堪(たへ)たる人にあらずんバ必ず任せ難し、先づ郷村の高を極ることを第一に考ふべし」(大石慎三郎校訂『地方凡例録』、六五ページ)。
ここでは、「検地」が「国の盛衰」「民の安危」に係わる重要な行為であると強調されている。さらに、その最大課題は、「郷村の高」を決めることだとしており、これこそが、年貢の基準となるもの、という認識をうかがうことができる。