そこでまず、年貢のことを考える前提として、この「検地」についてみておくことにしたい。
一般的に「検地」とは、何をどのように調査し記録する作業なのであろうか。
それをごく簡単にまとめると、次のようになる(神崎彰利『検地』、一九ページ)。
(1)検地は村を単位とする。
(2)村内小字を確認し、一筆ごとに田畑・屋敷地を測量、その地積と生産高を確定する。
(3)田畑・屋敷地の持主=名請人を確定する。
(4)田畑の等級=品等と、田畑の等級別反(段)当り生産高=石盛を確定する。
そして、この(1)~(4)を集計し、その結果として、
(5)村の全面積の確定。
(6)村の規模=村高を確定。
(7)村の範域と同時に村境を確定する。
このうち、単に地積を丈量してそれ以前のものを修正する検地のことを、「地押」「地詰」「地坪(じならし)」とよんでいる。
この一連の作業の結果として作成されるのが「検地帳」である。「検地帳」は、村の規模に応じて一冊だけですむ場合もあるが、普通は数冊におよんでいる。そして通常、この「検地帳」は二セットつくられ、一セットは領主側に提出され、もう一セットは村で管理されることになる。
領主側が問題にするのは、一筆ごとの田畑・屋敷の面積や生産高ではなく、村全体の「高」であった。つまり、検地を行った村が全体でどのくらいの生産高を有しているのか、ということが最重要課題だったのである。年貢は、領主から直接的に農民の一人ひとりに課せられるものではなく、村という共同体組織全体に課せられるものだった。このことを「村請制」とよぶが、これによって中世の時期に生活レベルでつながっていた村が、近世的な行政組織の中に組み込まれることになるのである。まさに、先の『地方凡例録』で述べられていた「郷村の高」が、この村の生産力の基準を示す「村高」にあたるものであり、検地を通じて設定されていったのである。
各地域の村落が、こうしたかたちで領主側に掌握されていったところに、近世村落の特徴があるのであり、この段階で近世村落が誕生したということができる。
一方、村で保管・管理されている「検地帳」は、村内の一人ひとりの農民の年貢負担を確定する、基本的な台帳となるのである。「検地帳」によって各人の持ち高が明らかにされ、それに応じて各人の負担が決定されるのであるが、村段階での事務処理の円滑化のために「名寄帳」などとよばれる、各人の個人的な年貢負担を書き上げた帳面が作成されるのが普通であった。したがって「検地帳」は、年貢負担者を確定すると同時に、一般的に「本百姓」と呼ばれる村落の構成メンバーを記載する基本台帳ともなっていったのである。