多摩市域の検地帳

833 ~ 834
近世の多摩地域で検地が施行されはじめるのは、天正十八年(一五九〇)八月に、徳川家康が関東入国をはたした後のことであった。全国的な一斉検地としてよく知られる「太閤検地」の一環として、若干の手法は異なるながらも、すでに家康はその前年に三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の、いわゆる「五カ国総検」を実施している。いわば「検地」を通じて、自己領有の村々を掌握する仕法を確立していたのである。
 さて、多摩市域での検地について、江戸時代後期の文化年間に編さんされた、『新編武蔵国風土記稿』の記載をみてみよう。それを簡単にまとめたものが、表6―7である。
表6-7 多摩市域検地一覧
村名 年月日 西暦年 検地役人名 備考
乞田村 寛文5年9月 1665 土屋但馬守数直 西部
寛文6年11月27日 1666 坪井次右衛門某 東部
落合村 元亀3年 1572 笠原越前守 小田原北条家分国の頃
慶安3年8月 1650 中川八郎右衛門
寛文5年 1665 土屋但馬守数直
連光寺村 慶長3年9月 1598 竹川監物
窪田久左衛門
井口茂右衛門
関戸村 延享3年関戸新田検地
貝取村 寛文3年3月 1663 松平新五左衛門
上和田村 天文3年10月 1534 吉良市之進
鈴木与兵衛
山田武助
文禄3年 1594 樋口又兵衛某
中和田村 寛永14年 1637 福村長右衛門政直
寺方村
一ノ宮村 文禄3年 1594 太田宮内之丞
井上善蔵
寛永14年9月22日 1637 尾崎庄兵衛
鈴木忠右衛門
(注)『新編武蔵国風土記稿』より作成。

 これによれば、現在の市域のうち、関戸村と寺方村との項には、実際に施行されたのであろうが、検地実施の記載はない。また、和田村は上中に分けて書かれている。このなかで最も古い時期に行われた検地は、天文三年(一五三四)の上和田村でのものとされているが、その際の「検地帳」は現存していない。
 それ以降については、一六世紀末の文禄・慶長期、そして、徳川幕府が近世村落のシステムを完成させる梃子とした、いわゆる「寛文総検地」の時期に集中している。
 さて、近世の初期段階での検地で作成された「検地帳」のうち、現存している最古のものは、文禄三年(一五九四)十月十一日付けの「多西郡和田之御領私領御縄打水帳」(飯島一郎家伝来文書4)である。ここに記載されている項目は、字名・土地形状・等級・面積・分付名・作人の六つであった。この記載形式は、「和田郷」独特のものではなく、他の地域の検地帳でも見受けられることから、この時期の検地帳としては、ごく「一般的」形式と見なすことができる。ここでいう「土地形状」は、様々な形をした土地を計測する際に、水縄・梵天・細見・竿間・十字といった検地用具を用いて、長方形あるいは正方形とみなしたもので、正確な数値ではないものの、それぞれの土地の縦・横の長さを記したものである。「等級」は、田と畑をそれぞれ上・中・下というランクに分け、生産力の目安を示している。