さて、多摩市域での検地について、江戸時代後期の文化年間に編さんされた、『新編武蔵国風土記稿』の記載をみてみよう。それを簡単にまとめたものが、表6―7である。
村名 | 年月日 | 西暦年 | 検地役人名 | 備考 |
乞田村 | 寛文5年9月 | 1665 | 土屋但馬守数直 | 西部 |
寛文6年11月27日 | 1666 | 坪井次右衛門某 | 東部 | |
落合村 | 元亀3年 | 1572 | 笠原越前守 | 小田原北条家分国の頃 |
慶安3年8月 | 1650 | 中川八郎右衛門 | ||
寛文5年 | 1665 | 土屋但馬守数直 | ||
連光寺村 | 慶長3年9月 | 1598 | 竹川監物 | |
窪田久左衛門 | ||||
井口茂右衛門 | ||||
関戸村 | 延享3年関戸新田検地 | |||
貝取村 | 寛文3年3月 | 1663 | 松平新五左衛門 | |
上和田村 | 天文3年10月 | 1534 | 吉良市之進 | |
鈴木与兵衛 | ||||
山田武助 | ||||
文禄3年 | 1594 | 樋口又兵衛某 | ||
中和田村 | 寛永14年 | 1637 | 福村長右衛門政直 | |
寺方村 | ||||
一ノ宮村 | 文禄3年 | 1594 | 太田宮内之丞 | |
井上善蔵 | ||||
寛永14年9月22日 | 1637 | 尾崎庄兵衛 | ||
鈴木忠右衛門 | ||||
これによれば、現在の市域のうち、関戸村と寺方村との項には、実際に施行されたのであろうが、検地実施の記載はない。また、和田村は上中に分けて書かれている。このなかで最も古い時期に行われた検地は、天文三年(一五三四)の上和田村でのものとされているが、その際の「検地帳」は現存していない。
それ以降については、一六世紀末の文禄・慶長期、そして、徳川幕府が近世村落のシステムを完成させる梃子とした、いわゆる「寛文総検地」の時期に集中している。
さて、近世の初期段階での検地で作成された「検地帳」のうち、現存している最古のものは、文禄三年(一五九四)十月十一日付けの「多西郡和田之御領私領御縄打水帳」(飯島一郎家伝来文書4)である。ここに記載されている項目は、字名・土地形状・等級・面積・分付名・作人の六つであった。この記載形式は、「和田郷」独特のものではなく、他の地域の検地帳でも見受けられることから、この時期の検地帳としては、ごく「一般的」形式と見なすことができる。ここでいう「土地形状」は、様々な形をした土地を計測する際に、水縄・梵天・細見・竿間・十字といった検地用具を用いて、長方形あるいは正方形とみなしたもので、正確な数値ではないものの、それぞれの土地の縦・横の長さを記したものである。「等級」は、田と畑をそれぞれ上・中・下というランクに分け、生産力の目安を示している。