文禄期の検地

834 ~ 839
まずはじめに、第二節でもふれたが、「分付」記載について考えてみよう。この記載は通常、土地の所有者と耕作者がいわゆる隷属関係にあると考えられてきた。ただし、一概にそうした判断が下せるのかどうかについては、疑問視する見解もあって、検討の余地が残されている。そこで、和田村の文禄期の検地帳をとり上げ、そこに記載されている内容を、若干検討してみよう。この「多西郡和田之御領私領御縄打水帳」に関しては、すでに詳細な研究が発表されているが(安澤秀一『近世村落形成の基礎構造』)、それらの成果に基づき考察することにしたい。

図6―13 和田郷文禄三年検地帳写

 この「検地帳」に記載されている事柄をまとめたものが、表6―8である。これによれば、記載されている耕地の筆数は合計五五九であり、作人数は七一名であった。耕作面積の規模は、三百畝未満百畝以上というものが全体の三分の一を占めており、七十畝以上のものが全体の七割以上になっている。面積規模の小さな耕地が、意外に少ないことに気づくであろう。また、耕作地の等級を度外視し、単純な耕作面積と筆数の関係を見てみると、当然のことながらそこには正の相関関係が見出せる。
表6-8 和田郷文禄三年検地帳 耕地筆数・手作地規模別分布
規模別\筆数 1 2 3 4 5 6~10 11~15 16~20 21~25 26~30 31~35 36~40 41~45 46以上 人数計 筆数計 筆数百分比 一人当たり平均筆数
300畝以上500畝未満 1 2 1 4 152 27.2 38.0
100~300 4 4 1 2 11 196 35.1 17.8
70~100 1 4 2 7 56 10.0 8.0
50~70 1 2 4 7 46 8.2 6.6
30~50 2 1 2 1 6 38 6.8 6.3
10~30 4 4 5 1 1 15 38 6.8 2.5
5~10 7 2 9 11 2.0 1.2
1~5 6 1 7 8 1.4 1.1
1未満 1 1 1 0.2 1.0
0 0 0.0
入作 2 1 1 4 13 2.3 3.3
人数小計 18 9 7 3 4 12 7 4 1 3 0 2 0 1 71 7.9
筆数計 18 18 21 12 20 86 88 70 21 82 76 47 559 100.0
(注)安澤秀一『近世村落形成の基礎構造』112ページ~113ページの表に加筆引用。

 田と畑という観点から捉えたものが、表6―9である。五五九の筆数のうち、六五パーセント余りが畑方なのであるが、面積という点からすると、田と畑がそれぞれ四五パーセント・五五パーセントとその割合が近似してくる。このことは、田の一筆の面積規模が畑のそれに比して、大きいものが多かったことを示している。
表6-9 田畑別筆数
筆数 筆数百分比
反別
畝一歩
反別百分比
一筆当り平均
畝一歩
田方 193 34.5 2360-14 45.8 12―07
畑方 366 65.5 2796-23 54.2 7―19
559 100 5157-07 100 9―07
分付地 60 10.6 551-09 10.7 9―05
(注)安澤秀一『近世村落形成の基礎構造』112ページの表から引用。

 ところで、この表6―9では分付地の筆数も示されている。これによって、全体の約一割にあたる耕地が分付地であったことがわかる。これを人数の面からみてみると、「分付主」が一四名であり、そのもとで耕作を行う「分付百姓」は三四名であった。この数字によって、「分付主」の経営規模は大きく、「分付百姓」との隷属関係において常に優位であったと考えるのは、早急に過ぎる。「分付主」と「分付百姓」の間の階層分化を想定するのは、最も安直な結論のくだし方である。
 まず気がつくことは、「分付主」に対して「分付百姓」の数が多いのであるから、この関係性が単に、一対一の関係ではなく、一対複数の場合もある、ということであろう。一人の「分付主」が九人の「分付百姓」を有しているのをはじめ、七人、六人、五人というように複数の関係性をもっている事例の方が多い(一対一だけの関係は、一四人の「分付主」のうち五人だけである)。これだけであれば、有力な「分付主」が、零細な「分付百姓」を隷属的に支配しているということにもなろうが、逆に「分付百姓」に何人の「分付主」がいたのかをみてみると、これまた単純に、一対一だけの関係でないものが存在している。最も多いものには四人の「分付主」がおり、三人、二人という複数の「分付主」を有している「分付百姓」が七名存在している。
 さらに問題を複雑にしているのは、この三四名の「分付百姓」のうち六名が、他の百姓に対して「分付主」となっている、ということである。すなわち、「分付主」であると同時に「分付百姓」なのであった(安澤前掲書、一一〇~一一七ページ)。たとえば、「十左衛門」という百姓は、四人の「分付百姓」を有する「分付主」でありながら、二人の「分付主」をもつ「分付百姓」であった。このように、「分付主」―「分付百姓」の関係性は、錯綜していたのである。
 「検地帳」から垣間みえるこの時期の村の様子は、家族労働力だけでは生計が成り立ちえない人々の姿である。様々な関係性を保ちながら、手作り地を耕作し、さらに他人の耕地で労働することによって生活必需品を入手していたのであろう。だが、そうした関係が、即そのまま、隷属関係に収束していないことにも注意する必要がある。「分付主」と「分付百姓」という、検地帳上では区分けされる階層に身をおいてはいるが、必ずしも上下関係のみではないのである。こうしたところに、中世の残像が映し出されているのではなかろうか。