慶長・文禄期の検地を経て、寛永・寛文期にいたる、いわゆる幕藩体制初期と呼ばれる時期において、多摩市域の村々でも様々な変化が見られた。なかでも、村の生産力を示す「村高」の表示方法が変わったのは、大きな変化の一つといえよう。
南多摩丘陵に散在していた村々のなかでも、特に「武州山之根」と呼称されていた山付の村々では、この期間に、それまでの貫文制による永高表示から、石高表示への変換が一斉になされた。それまで石高表示であった村々は、寛永期に検地が実施され、近世村落として新たなシステムに組み込まれていったのであるが、永高表示であった村々は、幕府による実測検地、いわゆる「寛文総検地」が施行され、新たな石高が設定されていったのである。多摩市域の村々では、先に掲げた表6―7で明らかであるが、中和田・一ノ宮村が、寛永期の検地をうけた古くからの石高表示の村であり、乞田・落合・貝取といった諸村が寛文検地を通じて石高表示をとるようになったわけである。
ただし、実際の年貢徴収に関しては、田方が米納であり、畑方が金納という形態は継続された。石高で表示された「村高」は、その意味で基準値であり、形式的な統一基準であったことがうかがえる。これによって、近世における行政的な村落が、完成していったのである。
ところで、寛文検地で作成された「検地帳」は、いくつか現存しているが、その記載形式は文禄検地帳とほとんど変わっていない。いずれも、字名・耕地形状・等級(耕作地の種類)・面積・作人が記されている。ただ、「分付」記載がほとんどなくなっている点が注目される。まさに、一地一作人制が、書類上でも確認できるのである。また、「屋敷」「田方」「畑方」というような、耕作地の種類別に帳面が作成されていることが、これ以前の検地帳とは大きく異なっていた。村内の様々なシステムの基本台帳としての性格が付加され、領主にとっても村人にとっても、その重要性が認識されるようになったのである。これによって、領主側は自らの領地の規模を、村民側は自分たちの村の境界を知ることができたのであった。
この時期に決定された「村高」は、その後近世を通じて、新田の増加などの耕地面積の拡大といった場合を除き、ほとんど変更されなかった。このことは、非常に大きな意味がある。生産という局面からみれば、年貢収取の中核は、自ずから穀物生産部門になることは明らかなのであるが、その生産力の把握は、逆に年貢徴収量の上限を定めることにもなったわけである。検地によって定められた「村高」は、領主自身が実測したという認識のもとで確定されたために、その変更を主張する根拠を、領主自身が断っていた。品種改良・肥料の投下などによる土地生産性の向上や技術革新による生産力の上昇は、もはや領主自身の手による回収不能のシステムの中で、農民の手元に「作徳米」をもたらす以外の何ものでもなかった。
さらに、検地による村高および村の規模の確定は、年貢徴収という側面からみれば、農業以外の産業、すなわち手工業や流通部門といった、そもそも村に内在していた分野の生産を無視したものであった。これら諸部門は、近世の当初から年貢賦課の対象外とされたわけである。これは、まさに領主自身が自らの首を絞めるようなものであって、近世における幕府財政および領主財政逼迫の根本的な要因となったのであった。