年貢高の変遷

848 ~ 851
領主から要求される年貢高は、自然環境の変化等、農業生産をとりまく色々な状況の変化に応じて移り変わっていく。そこには無論、年貢高を最大に引き上げようとする領主側の目論見と、できうる限り低く押さえ込もうとする農民側との駆け引きが存在するのであるが、いずれにしても、そのスタートは、領主による年貢納入高の提示からはじまる。そのために、村内部においても、これらの高を最優先で記録し、それも長期間にわたって保存管理していこうとする動きが生じるのである。いわば、領主側からの提示に対し、最も有効な証拠物件を掌握するといったようにも見受けられる。多摩市域の諸村においても、この年貢賦課の変遷は、各種の文書として保存されてきた。
 その事例としては、村で管理する「年貢割付状」の写しの最後部に、二〇年分の割付高を記載し、代官へ提出した寺方村の場合や(資二社経117)、領主の変遷や「年貢勘定目録」などとともに、単独の事務的な書類として作成されたと思われる乞田村の文書(資二社経92)などがある。
 そこで、これらの資料から、年貢高がどのように移り変わっていったのかをみてみることにしよう。
 図6―15と6―16は、それぞれ乞田村と寺方村の年貢割付状による、米納・永納高の変遷を図示したものである。
 乞田村の村高は、元禄八年(一六九五)段階で三五八石九斗七升三合というものであった。田方の米納高の二〇年間の変化をみてみると、だいたい六〇石から七〇石代であった。延宝七年(一六七九)の約八〇石と貞享二年(一六八五)の五二石弱というのが例外的な数値である。一方、畑方の永納額についてはほぼ一定している。天和元年(一六八一)分が一五貫文を下回っているのを除けば、だいたい二〇貫文を前後する額といえる。さらに、貞享年間から元禄年間にかけて、永高が固定化していく傾向性を読みとることができよう。
表6―10 乞田村年貢割付額変遷表
年号 西暦 米合計(石) 永合計(貫文)
延宝4 1676 70.346 24.2400
延宝5 1677 62.572 18.5590
延宝6 1678 66.178 18.1790
延宝7 1679 79.669 26.2280
延宝8 1680 57.840 22.5000
天和1 1681 59.538 14.7700
天和2 1682 62.407 22.5940
天和3 1683 65.423 21.0300
貞享1 1684 74.306 19.2660
貞享2 1685 51.825 16.4290
貞享3 1686 68.969 19.1580
貞享4 1687 63.484 22.0570
元禄1 1688 74.096 21.9426
元禄2 1689 67.796 22.2190
元禄3 1690 72.225 22.0540
元禄4 1691 74.850 21.8500
元禄5 1692 62.398 22.2190
元禄6 1693 69.985 20.2000
元禄7 1694 68.765 21.2370
元禄8 1695 63.315 22.2690
(注)資二社経92より作成。


図6―15 乞田村年貢割付の変遷

 寺方村は、同じく元禄八年段階で、村高が六二石九斗三升九合であった。寺方村も乞田村の場合と同様に田方米納高の方が、上下の動きが大きくなっている。特に目を引くのは延宝八年の八石余り、というものである。この年は、乞田村でも同様に米納高が下がっていることをみると、当時の多摩市域において、何らかの自然現象を原因とした不作の年だったのではなかろうか。その反対に、納入高が一番高かったのも、これまた乞田村同様、延宝七年であった。畑方の方は、五貫文代前半で一定している。
表6-11 寺方村年貢割付額変遷表
年号 西暦 米合計(石) 永合計(貫文)
延宝4 1676 14.460 4.6540
延宝5 1677 14.255 5.7310
延宝6 1678 14.477 5.4850
延宝7 1679 14.739 5.6250
延宝8 1680 8.165 4.7160
天和1 1681 10.107 4.4580
天和2 1682 12.845 5.3790
天和3 1683 13.565 5.3790
貞享1 1684 13.614 5.3790
貞享2 1685 13.347 5.0180
貞享3 1686 12.623 5.3790
貞享4 1687 12.412 5.5260
元禄1 1688 14.302 5.5020
元禄2 1689 12.158 5.5020
元禄3 1690 13.337 5.3760
元禄4 1691 13.478 5.4010
元禄5 1692 11.709 5.5020
元禄6 1693 12.731 5.0110
元禄7 1694 12.731 5.2560
元禄8 1695 12.003 5.5020
(注)資二社経117より作成。


図6―16 寺方村年貢割付の変遷

 この二つの村の、年貢割付高の変遷から、田方年貢は年々の変化がかなり大きく、自然現象等に左右される米作特有の状況が浮かび上がってくる。一方の畑作は、むしろ一定しており、そうした自然現象に左右されないかのようにみえる。だが、同じ地域において、そうした影響が全くなかったはずはなく、一定している点には、何らかの人為的な要因を想定せざるをえないであろう。その最大のものは、金納という納入形態そのものにあると考えられないだろうか。畑作の場合は、耕作地のほんのわずかな高低差で、生産力に違いが出るというように、その生産条件に大きく左右されるものであった。また、どのような作物を生産しているのかといった、生産物の種類の相違によっても、農民の収入金額には違いが出てきたはずである。だが、領主側はそうした点を考慮せず、近世以前からと考えられる「畑方永納」制を踏襲したのであった。その結果が、畑方年貢の固定化となってあらわれたのである。田方米納に年貢の主眼をおいていた近世の領主層は、こうした面でも財政逼迫への道を歩んでいたように思えてならない。