その事例としては、村で管理する「年貢割付状」の写しの最後部に、二〇年分の割付高を記載し、代官へ提出した寺方村の場合や(資二社経117)、領主の変遷や「年貢勘定目録」などとともに、単独の事務的な書類として作成されたと思われる乞田村の文書(資二社経92)などがある。
そこで、これらの資料から、年貢高がどのように移り変わっていったのかをみてみることにしよう。
図6―15と6―16は、それぞれ乞田村と寺方村の年貢割付状による、米納・永納高の変遷を図示したものである。
乞田村の村高は、元禄八年(一六九五)段階で三五八石九斗七升三合というものであった。田方の米納高の二〇年間の変化をみてみると、だいたい六〇石から七〇石代であった。延宝七年(一六七九)の約八〇石と貞享二年(一六八五)の五二石弱というのが例外的な数値である。一方、畑方の永納額についてはほぼ一定している。天和元年(一六八一)分が一五貫文を下回っているのを除けば、だいたい二〇貫文を前後する額といえる。さらに、貞享年間から元禄年間にかけて、永高が固定化していく傾向性を読みとることができよう。
年号 | 西暦 | 米合計(石) | 永合計(貫文) |
延宝4 | 1676 | 70.346 | 24.2400 |
延宝5 | 1677 | 62.572 | 18.5590 |
延宝6 | 1678 | 66.178 | 18.1790 |
延宝7 | 1679 | 79.669 | 26.2280 |
延宝8 | 1680 | 57.840 | 22.5000 |
天和1 | 1681 | 59.538 | 14.7700 |
天和2 | 1682 | 62.407 | 22.5940 |
天和3 | 1683 | 65.423 | 21.0300 |
貞享1 | 1684 | 74.306 | 19.2660 |
貞享2 | 1685 | 51.825 | 16.4290 |
貞享3 | 1686 | 68.969 | 19.1580 |
貞享4 | 1687 | 63.484 | 22.0570 |
元禄1 | 1688 | 74.096 | 21.9426 |
元禄2 | 1689 | 67.796 | 22.2190 |
元禄3 | 1690 | 72.225 | 22.0540 |
元禄4 | 1691 | 74.850 | 21.8500 |
元禄5 | 1692 | 62.398 | 22.2190 |
元禄6 | 1693 | 69.985 | 20.2000 |
元禄7 | 1694 | 68.765 | 21.2370 |
元禄8 | 1695 | 63.315 | 22.2690 |
図6―15 乞田村年貢割付の変遷
寺方村は、同じく元禄八年段階で、村高が六二石九斗三升九合であった。寺方村も乞田村の場合と同様に田方米納高の方が、上下の動きが大きくなっている。特に目を引くのは延宝八年の八石余り、というものである。この年は、乞田村でも同様に米納高が下がっていることをみると、当時の多摩市域において、何らかの自然現象を原因とした不作の年だったのではなかろうか。その反対に、納入高が一番高かったのも、これまた乞田村同様、延宝七年であった。畑方の方は、五貫文代前半で一定している。
年号 | 西暦 | 米合計(石) | 永合計(貫文) |
延宝4 | 1676 | 14.460 | 4.6540 |
延宝5 | 1677 | 14.255 | 5.7310 |
延宝6 | 1678 | 14.477 | 5.4850 |
延宝7 | 1679 | 14.739 | 5.6250 |
延宝8 | 1680 | 8.165 | 4.7160 |
天和1 | 1681 | 10.107 | 4.4580 |
天和2 | 1682 | 12.845 | 5.3790 |
天和3 | 1683 | 13.565 | 5.3790 |
貞享1 | 1684 | 13.614 | 5.3790 |
貞享2 | 1685 | 13.347 | 5.0180 |
貞享3 | 1686 | 12.623 | 5.3790 |
貞享4 | 1687 | 12.412 | 5.5260 |
元禄1 | 1688 | 14.302 | 5.5020 |
元禄2 | 1689 | 12.158 | 5.5020 |
元禄3 | 1690 | 13.337 | 5.3760 |
元禄4 | 1691 | 13.478 | 5.4010 |
元禄5 | 1692 | 11.709 | 5.5020 |
元禄6 | 1693 | 12.731 | 5.0110 |
元禄7 | 1694 | 12.731 | 5.2560 |
元禄8 | 1695 | 12.003 | 5.5020 |
図6―16 寺方村年貢割付の変遷
この二つの村の、年貢割付高の変遷から、田方年貢は年々の変化がかなり大きく、自然現象等に左右される米作特有の状況が浮かび上がってくる。一方の畑作は、むしろ一定しており、そうした自然現象に左右されないかのようにみえる。だが、同じ地域において、そうした影響が全くなかったはずはなく、一定している点には、何らかの人為的な要因を想定せざるをえないであろう。その最大のものは、金納という納入形態そのものにあると考えられないだろうか。畑作の場合は、耕作地のほんのわずかな高低差で、生産力に違いが出るというように、その生産条件に大きく左右されるものであった。また、どのような作物を生産しているのかといった、生産物の種類の相違によっても、農民の収入金額には違いが出てきたはずである。だが、領主側はそうした点を考慮せず、近世以前からと考えられる「畑方永納」制を踏襲したのであった。その結果が、畑方年貢の固定化となってあらわれたのである。田方米納に年貢の主眼をおいていた近世の領主層は、こうした面でも財政逼迫への道を歩んでいたように思えてならない。