村と年貢

851 ~ 853
近世の村人たちが、どのようにして年貢を納めていたのかをみてみることにしよう。田方は米納、畑方は金納という形式で、年貢の納入が請求されたわけであるが、実際の収納もこの通りだったのだろうか。
 この問題に関しても、連光寺村の「年貢払勘定目録」をもとにした詳細な研究が、すでに発表されている(安澤前掲書、四五五~五四一ページ)。これに基づいて考えていくことにしよう。
 まず、年貢納入の時期であるが、一般に、多摩地域の年貢納入は年三回といわれている(神立孝一「近世の村と村役人(一)」、八王子市郷土資料館『八王子の歴史と文化』八)。それは、畑方の夏成(七月)・秋成(十一月)・本途(十二月)というように、田方と畑方に分けて納入するものであった。だが、そうした形式がいつの段階から確定されたのかは、明かではない。連光寺村の場合は、近世の初頭から、年に一回とは限らなかったようである。たとえば、延宝元年(一六七三)・同八年・天和二年(一六八二)・貞享元年(一六八四)・元禄六年(一六九三)の「田方」年貢・納俵をみると、「手形」という文言が目に付く。これは、納入時期を分割していることを意味しており、この五年の内、最多は延宝元年の七回、最少でも貞享元年の三回という具合であった。
 次に納入の形態についてであるが、数回に分けられた「納俵」の場合は、金納の部分もあったようである。田方米納という建て前ではあるが、その実は金納によるものだったわけで、米金の換算は、延宝元年=金一両ニ付九斗三升、延宝八年=同六斗二升、天和二年=同一石二斗六升九合、貞享元年=同一石四斗一升七合、元禄六年=同一石二斗五升四合、というように変動している。また、金納分の比率は、それぞれ、八割八分・四割九分・九割・八割八分・七割七分となっていた。米価が高いときに現米納入量が増加しているのは、領主側の経済的理由によるものであることは論を待たないであろう。この延宝八年は、先に見た乞田・寺方村の年貢割付状でも明らかなように、何らかの理由で、生産条件が大きく変化した年であることが推測できる。
 ところで、こうした現金納はどのようにして可能になったのだろうか。寛文十年付けの「米付伝馬覚」には、八王子横山町善兵衛に一六八俵の米を届けた旨の記載がみられる。同じく、元禄九年付けのものにも、八王子山上善左衛門方へ五四俵の米が搬送されており、連光寺村の金納が、八王子宿における米市場での換金だったことがわかる。
 一方、畑方の納入形態であるが、金納部分と小物成部分に分けることができる。小物成の内容は、寛永十年(一六三三)で、大豆・荏・胡麻・糠・藁の五品であった。寛永二十一年には、これに麦と真綿が加わっているが、元禄五年以降は大豆・真綿・麦・藁の四品になっている。これらの小物成は、石高に換算され、畑方取石(年貢賦課の対象となる石高)から差し引き、その残額が畑方納入分の金納額になるのである。こちらもまた分割納入であり、その回数は田方よりも多く、年四回から一一回というような幅を持っていた。これらは、常に全額納入されたわけではない。未納入分は「未進」とされ、翌年あるいは翌々年に延納されることになるのであるが、未進額には五割の延滞金が課せられている。
 田方にしても畑方にしても、納入形態の大半が現金であったことが、これらの資料から明らかになった。しかしながら、注意を要するのは、同じ金納といっても、田方の場合は米市場の相場による変動が存在していたのであるが、畑方の場合はそもそも金納が前提であったために、その換算額が一定であったということである。畑方の石と金の換算率は、連光寺村の寛永十年度分の皆済状などに「一両ニ付二石五斗かへ」とあるが、これが基本だったようである。したがって、年貢賦課の対象である石高は、田方の場合と畑方の場合では、その内容が大きく異なることになる。たとえば畑方の場合、一〇〇石が取り石であっても、永一貫文=一両=二石五斗の換算であるから、実質的には四〇石の価値しかもっていないことになる。田方が仮に、一両ニ付一石という相場であれば、畑方は田方の四〇パーセントの実態しかないわけで、同じように石高で年貢基準が示されていても、田方と畑方ではその負担率に大きな差がある、ということなのである。したがって、みかけの取石の大小が、そのまま年貢の負担の大小を決めることにはならない。いうなれば、村の田畑割合によっても、実質的な年貢負担率がかなり違ってくることに注意しなければならないだろう。それはまた、一人ひとりの百姓たちにも、そのままあてはまることなのである。