多摩市域の年貢納入形態が、実際は現金でなされてきたことをみてきたが、問題は、それらの貨幣を百姓たちがどのように入手したのかということである。田方米納・畑方永納というシステムを、年貢を納入する当事者である百姓のレベルで考えてみよう。
まず、田方米納であるが、これは村という組織自体が米を徴収し、販売することによって、現金を調達するものである。したがって、百姓個人としては現米を、組頭や名主のもとへ納めればよいわけである。それに対し、畑方分については、百姓が個人的に換金しなければならない。つまり自己調達しなければならない分である。いずれにしても、この貨幣化という行為は、「近世村落あるいは近世農民の市場接触の必然性」(安澤前掲書、五一三ページ)を示すものであり、村にしても百姓にしても市場経済の存在を前提にしなければ、年貢納入ができないようなシステムだったのである。
近世の経済が、年貢の賦課と収納を中核として成り立っているとすれば、以上のような観点から、市場経済および経済法則に貫かれたものであったことは、今さら強調するまでもない。多摩市域の各村々も、近郊市場である八王子とは、慶長年間から様々なつながりを有していたのであり、また、現物米の納入という行為をも通じて、江戸という近世最大の都市とも接触していたのであった。人々の経済生活は、都市という消費を中心とした社会と共存していたことは、とりもなおさず様々な情報と出会いながら暮らしていたことである。ともすると閉鎖的と考えられがちな近世村落は、最も近世的な年貢制度によって、広域にわたる経済関係を持たざるをえなかったのである。村と市場、そして多摩と江戸は、年貢を通じて経済社会の一つとして、見事にリンクされていたのである。