分郷について

855 ~ 857
江戸時代の村は、幕府であれ、大名であれ、旗本であれ、寺社であれ、必ずいずれかの領主によって支配されていた。幕藩体制社会に取り込まれたすべての村は、これらの領主によってそれぞれ支配されていたのである。今、正保期(一六四四~一六四八)の多摩市域の村の領主を表6―12で見てみると、連光寺村が天野孫左衛門、落合村が幕府と、単一の領主によって支配されているほかは、複数の領主が一つの村を知行するという形になっている。
表6―12 市域の村を知行する旗本(正保年間)
村名 知行主
貝取村 松平新五左衛門・大福寺
連光寺村 天野孫左衛門
関戸村 山角藤兵衛・幕府
乞田村 幕府・吉祥院
和田村 山中七左衛門・山角藤兵衛・幕府・高蔵院
寺方村 山角藤兵衛・幕府
一ノ宮村 中山助六・桑島孫六・幕府・一ノ宮大明神・一ノ宮観音
落合村 幕府
(注)『武蔵田園簿』より作成。

 このように、一村に複数の領主がいる村を、近世史研究者は相給村落と呼んでいる。これは、支配領主(旗本の場合は地頭と呼ぶ)の権力の分散化や、年貢徴収の安定化を意図したものといわれているが、旗本などが幕府から与えられた知行高と、知行地として一村もしくは数か村に設定された高の合計を等しくするためには、必然的に村高の分割による数値の調整が必要であったため、このような相給村落が出現することになるのである。場合によって、一村に十数人の支配領主がいるということも、決して珍しいことではなかった。
 幕府による家臣団への知行のあてがいは、天正十八年(一五八〇)に徳川家康が江戸に入ってすぐに開始され、第二節でも述べたように、山角牛太郎定吉が関戸郷の地一〇五〇石を与えられ、また一ノ宮村には、桑島万機親義と中山勘解由照守の知行地が誕生した。この時点で一ノ宮村は、幕府領と旗本二氏の知行地、さらに一ノ宮社領・観音堂領などが存在する相給村となったのである。
 しかし、このような村の知行状況は、そのまま変わらずに継続したのではなかった。幕府はこれ以降、数度にわたり知行割りの再編を行う。この知行割りの再編を「地方直(じかたなお)し」と呼ぶが、その大規模なものが寛永十年(一六三三)と元禄十年(一六九七)に実施されている。各村ごとの支配領主の詳細は、第一節を参照していただきたいが、簡単に触れておくと、まず、寛永の地方直しによって、連光寺村に天野孫左衛門重房の知行地が生まれ、貝取村には松平(宮石)新五左衛門直次が入ることになった。
 次いで元禄の地方直しの時には、それぞれ曽我七兵衛祐忠が乞田村・寺方村・落合村・一ノ宮村の、松平(竹谷)次郎左衛門清親が落合村の、浅井七平元忠が中和田村・寺方村の、和田伝十郎が上ケ和田村の領主となるといったように、多摩市域の村々の知行状況はさらに分割化されることになる。とくに曽我氏の場合は、表6―13のように、知行地五か村のうち、四か村がお互いに隣接する村に設定されており、知行地が各村にわたる分散知行の様子をはっきりと見ることができる。このように隣接する形で知行が分散している場合、逆に同じ領主をいただく村として、年貢の収納や触の伝達などの簡素化のために、これらの村が結びつくこともあった。実際、曽我知行所となった乞田村以下五か村では、鴨の献上や家臣たちへのお年玉など、地頭所への年始の挨拶などにかかった費用、あるいは御用金の徴収に関する村どうしの寄合や、江戸への出府費用といった年間の経費を、表6―13のように各村の知行高に応じて分担しており、五か村による恒常的な負担割りの体制が形成されていたことが知られる。
表6―13 曽我知行所五か村の地頭所関係入用勘定割(天保十一年)
村名 知行高 負担額
乞田村 358石9斗7升3合 鐚17貫932文
上柚木村 278石3斗8升9合 鐚13貫907文
上落合村 123石9斗2升2合1勺 鐚6貫187文
一ノ宮村  43石8斗8升 鐚2貫188文
寺方村  33石5斗9升4合2勺 鐚1貫675文
合計 838石7斗5升8合3勺 鐚41貫889文
(注)佐伯信行家伝来文書203より作成。

 市域内では、この元禄の地方直し以降、知行割りの変化は見られず、明治維新までこの体制が維持されることになるが、ここで見たように、一つの村がさらに分割され、複数の領主の知行地となることを、「分ケ郷(わけごう)」あるいは「分郷(ぶんごう)」という。すなわち、たとえば落合村を例としていえば、それまでは幕府領であったのが、元禄十年の地方直しによる分郷によって、松平氏と曽我氏という二人の旗本の相給村となったということになる。