多摩市域村々の分郷

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このように多摩市域の村々は、近世前期の分郷によって、それぞれの知行所に分割されたわけであるが、それではこの分郷によって、村は一体いかなる影響を受け、また、村の構造はどのように変化したのであろうか。
 しかしこの問題は、分郷による村の分割の方法によって大きく異なってくる。すなわち分郷の方法は、いくつかのパターンに分けることができ、それによって村の様相も異なってくるのである。その主要な方法を挙げるならば、まず、村を地域的まとまりをもって分ける方法がある。この方法は、それぞれの領主に属する百姓と土地が、原則的に地域的なまとまりとして設定されるため、村は領域的にそれぞれの知行所ごとに区別されることになり、村の分割はより強力なものとなる。ただし、知行高と所属する百姓の所持高を整合させるための、ある程度の知行所ごとの出作・入作関係が生ずることは当然ありうる。
 一方、その村に与えられた地頭の知行高に合うように、村における各百姓の所持高をそれぞれ分割するという方法がある。この方法の場合は、それぞれの百姓ごとに、その所持地がいくつかの領主に分有されることとなるため、知行地の領域性はなくなり、単なる知行高の数値合わせとしての分郷という側面が、強く表れることになる。
 また、領主ごとに所属する百姓を決定した上で、あとは知行高に合うように、それぞれの百姓の所持地を相応に分割していくという方法もあり、実際の分郷のあり方は、これらの方法の中で、いろいろな形をとっていたのである。
 それでは多摩市域の村々は、どのように分郷が行われたのであろうか。残念なことに、市域内の分郷の具体的な実施状況を示す資料は少ないが、分郷によって実質的に村が分割され、それぞれ別の村名がつくなど、村落構造に大きな影響が出た村が多かったようである。以下、とにかく分かる範囲で、その概要を見ていくことにしよう。
 なお、連光寺村と貝取村は旗本の一給地であるため、また関戸村は旗本領と幕府領の二給地であるが、史料的制約から、ここでの検討は行わない。ただし、連光寺村については、ここでいう分郷とは異なるが、やはり同じく村の中に存在するまとまり(村組)という点から後述することにする。
【落合村】 落合村は、先述のように、元禄十年(一六九八)の「地方直し」によって、幕府領が曽我氏の知行所と松平(竹谷)氏の知行所の二つに分割され、旗本二人の相給村となるが、この分郷によって、松平知行所を「上落合村」、曽我知行所を「下落合村」と呼ぶようになった。知行所の分割が、村の名称をも分けたのである。村が実際に分郷されるのは、関連史料の残り方から、翌年の元禄十一年であったと思われるが、この分郷の際に作成された「武蔵国多磨郡落合村田畑百性分ケ帳」という史料(資二社経44)は、曽我知行分(下落合村)となった土地の書上で、この史料には次のような文言が記載されている。
是は当村(落合村)御知行渡り分け郷仰せ付けられ候に付、村中大小の百姓寄り合い相談の上、田畑並びに跡々位下り畑甲乙無く割り合い、百姓身体むき上中下高に応じ割りわけ申す様に仰せ付けられ、畏まり奉り候、惣百姓相談の上鬮取りを以て相極め候


図6―17 落合村田畑百姓分ケ帳

これによると、村中の百姓が相談をして、百姓の暮らし向きにも十分配慮をして、それぞれの百姓が納得するような形で、両知行所ごとに土地を分割したことがわかる。また、この分割が「鬮取り」によって公正に行われたことも知られるのである。なお、名主はそれぞれの知行所ごとに置かれている。
 ところで、享保八年(一七二三)八月十九日の日付を持つ「落合村座帳」という史料が市内の東福寺に残されており、寺沢史家にも写が現存している(寺沢史家伝来文書2168)。この史料は、落合村の人々が祭などの場所で一同に会した時の、それぞれが占める座席の順番を示したものと考えられ、「左」と「右」に分けて、それぞれ名前が書き並べられている。落合村の家格を示す史料といえよう。一方、後年の写と思われるが、同様の内容で元和四年(一六一八)十一月十一日の日付を持つ史料が、やはり東福寺および寺沢史家に存在している(資二社経70)。享保八年の日付の史料には、名前のところに「上」や「下」といった記載があるが、元和四年の日付を持つ史料にはこの記載がないことから、この「上」と「下」という記載は、元禄十年の分郷によって生まれた「上落合村」と「下落合村」の区別を示すものであると考えられる。表6―14は、この史料に登場する姓を、「上」と「下」に分けて示したものである。ただし、この「上」「下」の記載は、すべての名前に付けられているわけではなく、書き上げられた名前一〇一人中、「上」二五人、「下」三六人の合計六一人である。この数字がどのような意味を持っているのかは不明といわざるを得ないが、中には家としての系譜を確定できないような場合もあったのかも知れない。「上」「下」の印の付いてない者でも、表に出てくる姓を持つ者が多くおり、また村役人などの有力な家も見られることから、本来ならばこれらの者も含めて検討しなければならないところではあるが、とにかく、ここでは史料の記載の中から、その方向性を検討するにとどめざるを得ないことを断っておく。なお、江戸時代とはいえ、百姓の姓はすでに存在しており、村の中や信仰の場、あるいは私的な場合などに使われていたことも、前提として述べておかねばならないだろう。
表6―14 上落合村と下落合村の姓
上落合村 下落合村
 名字 人数  名字 人数
 小泉 6人  加藤 10人
 横倉 5人  寺沢 5人
 高村 3人 ※峯岸 3人
※峯岸 2人  須藤 3人
 田中 2人  金子 3人
 大貫 2人  伊野 3人
※小山 1人  小林 3人
 河合 1人  黒田 3人
 古沢 1人  有山 1人
 井上 1人  内田 1人
 中田 1人 ※小山 1人
(注)寺沢史家伝来文書2168より作成。

 さて、この表によれば、上落合村には小泉や横倉をはじめとして一一の姓があり、一方、下落合村にも加藤や寺沢など一一の姓があったことがわかる。このうち、上落合村と下落合村の双方に現れる姓は峯岸と小山の二家だけで、その他の姓はすべて「上」か「下」かどちらか一方の村に限定されていることがわかる。このことは、落合村の分郷が、おおよそそれぞれの姓を持つ同族的なまとまりを尊重する形で行われたことを示しているといえる。村を分けるにあたり、村における日常的なつながりや社会構造を壊さないように、なるべく混乱を避けるようにして、分郷作業が進められていったといえるのである。なお、落合村には、この他に白山社領一〇石が存在していた。
【乞田村】 乞田村は、近世初頭は幕府領であったが、寛文四年(一六六四)に、そのうちの一部が土屋但馬守の領地となった。その後天和二年(一六八二)にこの領地は幕府領に復し、さらに元禄十年になって全村が曽我氏の領地となっている。乞田村が相給であったのは、幕府領と土浦藩領とが存在した寛文四年から天和二年までの一八年間ほどであったが、全村が曽我氏の知行地となって以後も、この相給時代の影響は強く残り、乞田村は土屋氏領であった地域を「上郷(上乞田村)」、幕府領であった地域を「下郷(下乞田村)」と呼び、近世を通じてその区別が存在したのである。
 乞田村における分郷の影響は、土屋氏領と幕府領との相給状態が解消した後まで残るほどに強く、村の構造を規定したのである。また、表6―15のように、村の中の組がそれぞれ上郷と下郷に所属していることからも、乞田村の分郷が地域的なまとまりを持つ形で行われたことが知られる。なお、乞田村には、この他に吉祥院領一〇石があった。
表6―15 乞田村の組
上郷 下郷
久保谷組 大貝戸組
谷戸根組 長山上組
平戸組 長山下組
(注)本間勝喜「乞田村の年番名主制」『郷土たま』六より作成。

【和田村】 和田村も、領主の違いによって、上ケ和田村と中和田村に分かれていた。上ケ和田村の方は、天正十八年(一五九〇)に後北条の遺臣である山中新右衛門直元の知行地となったが、承応二年(一六五三)に幕府領となり、元禄十年になって和田伝十郎の知行所となっている。一方、中和田村はもともと幕府領であったが、元禄七年(一六九四)以降は浅井氏の知行所となる。すなわち、和田村は、近世初頭から村内に領主の異なる地域が常に存在していることになり、それが上ケ和田村と中和田村の二つの村として表現されるもととなったのである。
 また、和田村の中の「関戸並木」という地域には、山角氏の知行地六八石余が存在していた。徳川家康が江戸に入った天正十八年に、かつての関戸郷の地に山角氏に与えられた一〇五〇石の中に、この「関戸並木」が含まれていたと考えられる。この「関戸並木」は、古くは「並木村」と呼ばれていたとされ(比留間一郎「和田村の村明細帳」『郷土たま』四)、上ケ和田村と中和田村とは別に存在していたと推察できるが、実際のところ詳しいことについては残念ながら確証を得るには至っていない。なお、この「関戸並木」については第二節で若干の検討を行っているので、参照していただきたい。
 いずれにしろ、領主の違いによって和田村がいくつかのまとまりに分けられていたことに変わりはない。しかし、和田村の場合は、分郷によって村が分かれたというよりも、近世初頭のかなり早い時期からすでに分郷状態となっていたというべきで、その区別は相当に強いものとなっていたことがうかがえるのである。なお、和田村にはこの他に高蔵院領五石があった。
【寺方村】 寺方村は、天正十九年に山角氏の知行地になったといわれている。その後、寛永十四年(一六三七)になって新たに開墾した土地が幕府領となり、さらにその場所に、元禄十年の「地方直し」によって、曽我氏と浅井氏が領主に加わっている。
 このような中で寺方村は、山角知行所と曽我・浅井知行所という二つの地域的なまとまりとして存在していた。もとより、この三人の知行所すべてを含めて寺方村という村名であったことに間違いはないが、史料的に確認されるところでは、曽我・浅井両知行所を「寺方村」と呼び、山角知行所を「原関戸村」と呼ぶなど、それぞれを区別することも行われていたようである。歴史的にいえば、山角氏の知行所が最も古く、その後の開墾によって生まれた幕府領が曽我氏と浅井氏の知行所に分割されたわけで、寺方村が大きく山角知行所と曽我・浅井両知行所に分けて意識されたというのも十分にうなずける。寺方村の場合は、新開地の成立によって分郷的な状況となり、そこに村の中の区別が生じたのである。また、「寺方村」の百姓は、それまでの人的なつながりを断ち切る形で、それぞれの知行所に分属しており、このことをめぐる問題については後述することにする。また、「原関戸」については第二節で先述してあるので、参照していただきたい。なお、寺方村にはこの他に、寿徳寺領七石があった。
【一ノ宮村】 一ノ宮村は、天正十八年に桑嶋氏と中山氏の知行地となり、残った部分は幕府領に宛てられた。しかし、この幕府領も元禄十年には曽我氏に与えられ、以降一ノ宮社領と観音堂領の他は、旗本の三給村となったのである。
 一ノ宮村の分郷の影響については史料的制約が大きく、明確なことは不明とせざるを得ないが、これら三つの知行地は地域的なまとまりは持たず、それぞれの領主に帰属する家は、地域的にかなり錯綜していたといわれている(叢書(1)一八八ページ)。しかし、村人たちの交際などは、それぞれの領主ごとに行われていたともいわれており、地域的に一ノ宮村が区別されることはなかったが、やはり分郷による影響が社会生活にも表れていたといえよう。