本村と馬引沢・諏訪坂

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これまで取り上げてきたような、村の中に形づくられたまとまりは、一般に「村組」などと呼ばれている。この「村組」には、領主支配の違いによるもの、年貢の収納などの単位となっているもの、さらに五人組といったように、おもに行政的な枠組として設定されたものから、日常の生活の中から形成されてきた共同体としてのまとまりにいたるまで、大小さまざまなものが存在していた。
 また、これらのまとまりは、それぞれが明確に分けられるものではなく、行政的なものと共同体的なものが重層的に重なりあっている場合が多く、その内実をより複雑なものとしていた。とすると、性格や機能、および歴史的背景などが異なっているそれぞれの組が、行政村の中でどのように機能し、お互いに影響を与えていたのかという点が、近世の村を考える上で重要となってくる。そこで、ここでは連光寺村を取り上げて、この問題を考えていくことにする。
 連光寺村には、これまで取り上げてきたような、支配領主の違いなどによってできた村組とは異なり、同じ天野氏という地頭をいただく連光寺村の中で、地理的なまとまりとして形成された集落(小村)が村組として存在していた。この点、この小村は、これまでの領主によって設定された行政的な村組のあり方とは違った、自然の立地を背景として行政村の中に存在してきた結合体であるということができる。すなわち、連光寺村の場合は、地理的な背景によって形成された集落(小村)が、連光寺村という一つの行政村の中の政治的単位として、どのように自らを位置づけようとしたのか、という点が重要な視点となってくるのである。
 ところで、ここで連光寺村の小村について、最初にその概要を見ておくことにする。まず、連光寺村の地形は、北に多摩川、西に大栗川・乞田川が流れ、平地は西北側の一部に限られ、多くは丘陵地で占められている。そして、丘陵に形成された谷戸地を中心に本村、馬引沢・諏訪坂、船ケ台といった集落が点在していた。また、洪水などによる多摩川の流路の変更によって、連光寺村から地理的に分断され、多摩川の北側に位置するようになってしまった下川原も一つの集落を形成し、それぞれが村の中の小単位としての小村を形成していた。
 このように連光寺村には、それぞれ丘陵と谷戸が織りなす地形によって区切られたいくつかの集落があり、それが村の中の小村として機能していたのである。そして、連光寺村のこのような小村の形成が行政的な意向によってなされたというよりも、共同体的な生活の論理によって形成されたものであることを示していることは先述した。それでは、以下連光寺村の小村をめぐる動きを取り上げることで、村とその内部に存在するまとまりとの問題を考えていくことにしよう。
 先に述べたように、連光寺村はそれぞれの集落が入り組んだ多くの谷戸によって分断されているため、あたかもそれぞれが独立して存在しているような形となっていた。このうち本村には、連光寺村の名主を勤める家があることから、この本村と呼ばれる集落が連光寺村の行政的な中心となっていた。このため、馬引沢や諏訪坂などの住民は、廻状の触れなどを受けたり、何か事件や問題が発生した時などは、わざわざ本村にまで出向かなければならず、大きな負担となっていた。一方、本村の住人にとってみれば、名主宅に近いということで、日常のさまざまな用向きも多くなり、そのための負担もばかにならず、迷惑であるという主張もまた生まれることになる。このような立場の相違から、文化二年(一八〇五)に、この状態の改善を求める動きが表面化するのである。

図6―19 馬引沢すけのやと(昭和三十五年頃)

 文化二年三月付の、本村側の村役人が領主に提出した願書が残っているが(〈史〉富澤政宏家伝来文書422)、そこでは次のような主張が展開されている。まず、本村の負担については、名主宅が本村にあるため、廻状の継ぎ送りなどの用向きも多くなるのに対して、馬引沢や諏訪坂は「無役同然」と、負担が不公平であることを述べ、村役人の「了簡」によって各組が、諸用を「平均」に勤めるよう求めたのである。
 これに対して馬引沢と諏訪坂の村役人は、馬引沢と諏訪坂が本村から「手遠」の地であり、本村へ出かけて諸用を勤めるには弁当を持参しなければならないほどで、農業にも差し支えると諸用を「平均」に勤めることに対して反ばくしている。とくに「昼役」は農業に差し障ることから、夜は「両谷(馬引沢と諏訪坂)」だけで諸用を勤めるかわりに、昼は本村だけで勤めるようにしてほしいと提案している。本村側はこれを了承したが、肝心の両谷の惣百姓は、昼でも夜でも御用向きを勤めること自体に反対するという強硬な態度を示した。
 以上、本村と馬引沢・諏訪坂両谷双方の主張を見てきたが、本村側は連光寺村という一つの行政村を構成する組として、お互いに等分の負担を要求したのに対し、両谷側は、地理的な要因による負担の差別化を主張するという立場の違いがあった。これは、名主を抱え込むことによって、行政的論理に立つ本村と、その論理を拒否することによって、一つの集落としての共同体的ともいうべき独自の論理を持ち出す両谷という構図であり、そこに集落(小村=組)と村とのかかわり方の微妙な問題が表れているといえるのである。
 この争論は、四か月後の七月に内済している。内済の内容は、御用などの時は本村と両谷が順番で、夜は一人ずつ勤め、その他の時は本村でできるだけ勤めるようにするとしている。昼間の負担については双方が一体で勤めこととし、さらに用事を一つ勤めたら、何月何日に何の用で何村に継ぎ送ったといった事柄を詳しく記載するための帳面を作成し、用事の内容の個別的な差異を踏まえることで、諸用負担の平等化を図るようにしている。また、急な廻状の継ぎ送りなどの場合は、両谷は遠方でもあるので、なるべく本村で勤めることとし、事前に分かっているようなものについては、両谷でも勤めるようにするとしている(〈史〉富澤政宏家伝来文書450)。
 内済の内容を全体として見ると、双方の主張をうまく取り入れているようである。このようにして、小村を単位としながら村全体としての行政、村運営のあり方が模索されていったのである。