次に、下川原をめぐる動きの中から、さらにこれらの問題を見ていくことにする。
先述したように、下川原は多摩川の流路の変化によって、本村など連光寺村の他の小村とは、多摩川を隔てることになってしまった。また、多摩川の北側の低地に位置しているため、下川原の耕地の比率は、天保十四年(一八四三)の村明細帳によると、田方が四三・五パーセント、畑方が五六・五パーセントであるのに対し、下川原以外の小村の比率は、田方が三六・五パーセント、畑方が六三・五パーセントと、下川原は稲作の割合が多く、谷戸地に散在している他の小村とは、農業生産の面でも異なっていた。このため、たとえば年貢割付状にも「下川原共」と表現されたりするように、連光寺村における下川原の立場は、他の小村にも増して独立的な存在だったのである。
ところで、連光寺村の村役人は、名主一人に組頭と百姓代が数人ずつという体制であったが、この組頭と百姓代は、それぞれの小村ごとに置かれており、彼らがそれぞれの小村の代表として、行政的あるいは共同体的な事柄に対応していた。
下川原には、もともと二人の組頭がいたが、安永十年(一七八一)に、その二人の組頭を三人に増やしてほしいと願い出ることになった(〈史〉富澤政宏家伝来文書431)。この願いの理由は、次の通りである。
下川原村はこれまで組頭二人で諸御用を勤めてきたが、近年は三か村(現府中市域である四ツ谷村・中河原村と下川原村)で構成している用水組合の用事や、鷹場としての御用、鮎の上納に関する御用といった具合に、勤めなければならない御用が増えてきている。近隣の他の村では、それぞれの村高にふさわしく、五人から七人くらいの村役人で御用を順番に勤めているため、農作業をする時間も持てるが、これを二人だけでこなしていては、農業に携わる暇もないほどであると組頭増員の根拠を述べ、もしこの願いが聞き入れられない場合は、組頭役を辞退するよりほかはないと、苦悩の様子を見せている。
このように下川原は、『新編武蔵風土記稿』に「昔は端村にて別に一村を立てし地なりしを、後年本村に合せられし者とみえたり」と、もともと一つの独立村であったような記述もあり、連光寺村の中の一つの小村でありながら、地形や生活圏などの問題から、一村といってもいいような独立性を持っていたにもかかわらず、少人数の村役人で諸用を処理していかなければならないという矛盾を抱えていたのである。
このような状況から、下川原の人びとはたびたび連光寺村からの分村を企てている。下川原における最初の分村の動きは、弘化二年(一八四五)であった。この年に、地頭所の用人(家臣)によって、下川原の分村を認めるという話が進んだのである。これは、この時期に発生していた連光寺村の村方騒動の流れの中で、村全体の結束を崩すという意図のもとに地頭役所の用人が画策したもので、下川原の組頭が名主代に任命されたりしたが、結局下川原の分村は実現しなかった。
このような下川原の分村運動の流れは、明治の時代となっても引き継がれ、明治元年(一八六八)・明治十一年(一八七八)と繰り返されている(渡邊尚志「幕末維新期における村と地域」『歴史学研究』六三八)。このような下川原の人びとの願いは、時代を越えて受け継がれ、結局、昭和三十年(一九五五)になって、ようやく下川原が府中市に移管されている。
今述べてきた下川原の村役人の問題については、寛政七年(一七九五)にも争いが起こっているので、ここでさらに触れておくことにしたい(〈史〉富澤政宏家伝来文書450)。
先述のように、下川原は連光寺村としては多摩川を隔てた北側に位置しており、急な御用などには差し支えることが多かったことから、天明年間頃から組頭の平右衛門が「名主代役」を兼帯してこれに対応してきたが、この平右衛門が名主代役を退いたため、入札で後任を決めることになった。ところが、下川原の者は皆「無筆(文字が書けないこと)」であるので、入札という方法はとれないとこれを拒否したため、このような下川原の動きを訴えることとなったのである。
この訴訟の過程での下川原の主張は、下川原はこれまで諸事につけ本村と一体になってやってきたが、「御錺伝馬」を下川原だけで負担していることは納得できないとして、ぜひ本村と馬引沢を含めた「三ケ所」で、年番に勤めるようにしてほしいというものであった。この問題については年内に内済となっているが、その内容は、「御錺伝馬」はこれまで一駄につき銭二〇〇文の割で、下川原が請け負ってきたが、以後は御祝儀として地頭から二〇〇文を援助し、合計四〇〇文を一駄につき受け取るようにするというものであった。また、下川原と馬引沢が年番でこの伝馬を勤めるように改正されている。さらに、名主代を勤める者には、毎年玄米二斗ずつが新たに支給されることになっている。ここでも、村の中の小村側の主張を取り入れることで、村としてのまとまりを保持することが目指されたといってよいだろう。小村は村の中に埋没しているものではなく、逆に村を新たに規定し直していく力ともなっていたのである。