村の文書

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近世の村は検地を通じ、村で年貢を請け負う「行政単位」として成立した。いわば、そのはじめの段階から「行政村落」としての性格を帯びていたのである。したがって、「村」は一つの組織体として、存在していたのである。組織が運営されていく過程で、古今を問わず様々な書類が作成されていくのは当然であった。それも、組織の合理性による優先順位によって、その保存と管理および維持継続が決定されるわけで、いかなる文書が、村の役人とともに引き継がれていったのかという点は、近世の村を考えるために不可欠のことである。
 近世の村々を貫いていた、年貢納入システムを考えるにあたって、まず、どのような文書が保存管理され、引き継がれていったのかをみてみることにしよう。それによって、近世の村における年貢が有していた意味を考えてみたい。
 近世の村には、役人がおかれていた。なかでも、名主(庄屋)・組頭・百姓代というのが、「村方三役」と呼称され、村落行政の中心的な任務を担っていた。ただ、こうした役職が一斉に設定されたわけではない。時代を追い必要に応じて、設けられていったのである。「名主」は、村政全般を取り扱うものとして、近世村落の形成とともに、村内の有力者たちがその任に当たった。「組頭」は、名主を補佐する職務であり、やはり有力な百姓が何名か任じられたのである。また、組頭は村内がいくつかの組に分かれている場合は、その代表者としての責務が課せられていた。「百姓代」は、一般に名主・組頭層の村政運営を監査する役職で、その設置は、名主・組頭に比べると、かなり後の段階へずれ込んでいる。
 この村方三役に代表される村役人たちの業務は、年貢の徴収が中心であったが、その際に様々な文書が作成された。それは恣意的に作られたものではなく、寛永・寛文期に幕府から指示されたことによるものであった。その代表的なものを、いくつか掲げてみよう。
 まず、次のような文言である(『徳川禁令考』寛永十九年午六月日付「覚」、二七八四号文書、第十一条)。
一、年貢等勘定以下、代官庄屋ニ小百姓立合可相極候、毎年其帳面ニ相違無之との判形為致置可申、何事によらす庄屋より小百姓共に非分申掛さる様に堅可申渡事

 ここで述べられていることは、毎年、定期的に作成される様々な帳面について、内容が間違いないということを、百姓一人ひとりに認めてもらい、その証拠として押印を受けること。そして、庄屋(名主)から百姓たちに対して非道な行いがなされないよう、注意を促している。
 年貢関係の帳面についても、次のように述べられている(『徳川禁令考』寛永二十一年正月十一日付「上方関東代官江下地」、二一〇五号文書、第十四・十五条)。
一、御年貢納庭帳ニ、其時之百姓ニ為改判、従名主方小百姓前江手形を出し、以来出入無之様可仕之、庭帳とじめに手代押切致印判、重而穿鑿可仕之事

一、郷中ニ而、諸役人入用之儀、惣百姓立合、小帳を作り、致加判置、其帳之としめニ手代押切印判仕、重而出入之無之様ニ可被申付之事

 ここでも、年貢関係の諸帳面には、百姓の承認印を押すこと、そして、年貢の授受に関しても手形を出して「請取」を明確にし、年貢に関する出入が起こらないよう注意をすることが示されている。さらに、帳面の綴じ目にも押印をして、その書類が改竄(かいざん)されていないことが誰にでもわかるようにしておくことを求めている。また、役人の必要経費についても、村の百姓全員の立会いのもとで、内容を点検し、承認の押印をするよう命じ、その帳面も年貢関係のものと同様、綴じ目に印を押し、再度、村内での出入が起こらないよう最善の注意を払うよう喚起しているのである。
 これらのシステムが村の中に定着していくに従い、名主・組頭の監査役である「百姓代」が設定されていったようである。それはまた、近世以前の主従制に基づく人間関係が解体し、近世独特の村として機能しはじめていることをものがたっているといえよう。
 さて、このようにして運営されている村において、ひとりの人間が終生、名主役を努めるような形態はなじむはずもない。名主役は、それぞれの村で、独特の交代方式をとるようになる。多摩市域の村々でとられたのは、「年番」というもので、名主役の有資格者が一年ごとに代わるというものであった。この、ちょうど交代の時期に、それまで作成されたり保管管理されてきた文書が、必要なものから順に、後継の名主役に引き継がれていくのである。その際も、村にとっての重要な文書の受け渡しであることから、その授受のための文書が作成されている。それが「名主引継帳」、あるいは「諸帳面請取帳」などと呼称されるものである。これによって、どのような文書が村の中で保管管理されていたのかを、うかがうことができるのである。
 表6―17と表6―18は、寺方村と落合村で引き継がれた文書群の内容を、簡単にまとめたものである。寺方村のものは、文化二年(一八〇五)二月付け(資二社経135)であり、落合村のものは、安政六年(一八五九)正月付けである(資二社経65)。
 この表に基づいて、その内容を少々検討してみよう。
 寺方村の場合は、簿冊類が四八種類一〇〇冊、状類が五種類で一九本、さらに帳箱・算盤・提灯などの諸道具類が五種類であった。分量・種類としても、かなりの量にのぼるといえる。これらを内容別にみてみると、圧倒的に年貢・土地関係のものが多いことに気がつくであろう。年貢については、村内の個人別の持ち高を記し、年貢割付や役負担の基準ともなる「名寄帳」をはじめ、田が畑になったり、畑が田に戻ったりといった耕地種目の移動や割付、各種の小物成や賦課された役負担分の取り立て帳などが目につく。また、村全体の運営に関する支出を記した「村入用帳」なども、引き継がれている。
表6-17 寺方村文化二年名主引継諸帳面
No. 名称 数量 備考
1 名寄帳 14冊 此之内壱冊上紙少々きず有リ申候
2 寺方村川欠干上リ立帰り開場改水帳 1冊
3 立帰リ再開場地改帳 1冊
4 畑方御年貢取附帳 関戸村 和田村 2冊
5 畑方御年貢取附帳 寺方村 落川村 2冊
6 本田畑新田畑水損御引方小前差引帳 1冊
7 武蔵国多摩郡関戸村名寄帳 1冊
8 本田畑川欠地所内改小前帳 1冊
9 四ケ村高帳 4冊
10 本田畑新田畑水損御引方小前差引帳 四ケ村 1冊
11 延享元子年・宝歴(暦)丑年・同丑年・明和三年并当不田(ママ) 1冊
12 関戸村畑御年貢取附帳 1冊
13 三ケ村之内持畑書抜帳 1冊
14 明和四亥年より巳年迄七ケ年定免割付 1冊
15 武蔵国多摩郡関戸村林畑反歩改帳 1冊
16 新関寄四ケ村 1冊
17 四ケ村再開反別改帳 1冊
18 明和六丑年川欠内改帳 関戸村 落川村 1冊
19 立帰リ田畑石盛割付帳 1冊
20 立帰リ新田畑御年貢取附帳 1冊
21 落川村本田畑川欠内改帳 1冊
22 明和八卯年落川村本田川欠内改帳 1冊
23 辰年より子年迄九ケ年定免可納割付 1冊
24 明和八卯年寺方村屋敷川欠所内改帳 1冊
25 落川村川欠内改帳 3冊
26 関戸村川欠跡立帰リ内改帳 2冊
27 落川村川欠改帳 1冊
28 安永九子年開新田取附帳 1冊
29 大豆取立帳 6冊
30 餅米取立帳 4冊
31 畑方御年貢取立帳 6冊
32 田方御年貢取立帳 7冊
33 焼米取立帳 3冊
34 日ノ伝馬帳 5冊
35 四ケ村高帳 2冊
36 真綿取立帳 3冊
37 国役取立帳 2冊
38 村入用割合帳 1冊
39 日〆定番割合帳 1冊
40 白麦水ノ粉取立帳 2冊
41 荒畑田四半納取立帳 1冊
42 岩堰反懸出人足帳 2冊
43 日ノ伝馬組合ニ而割合帳 1冊
44 一ノ宮用水新堀地代割合帳 1冊
45 年中小役納物定式府中野廻リ方定式帳 1冊
46 御鷹御用□(虫損)組村高帳 1冊
47 かさり□(虫損)切人足帳 1冊
48 夫米割合取立帳 1冊
49 未より卯迄定免可納割付之事 3本 にしのうち
50 定免可納割付之事 8本 半紙
51 寺方落川村皆済目録 6本
52 落川平五郎小物免状 1本
53 落川平五郎平四郎免状 1本
54 帳箱 1ツ
55 そろばん 1ちやう
56 3ツ
57 じゆうご(漏斗) 1ツ
58 ちやうぢん(提灯) 2ツ
(注)資二社経135より作成。

 一方、落合村の場合には、幕末段階のものであるが、簿冊類は二三種類三七冊、状類が九種類約五六通(本)であった。ここでも、簿冊類では年貢・土地関係のものが中心で「水帳」(検地帳)や「名寄帳」にはじまり、種々の役負担に対する取立帳などが多い。また、「五人組帳」「宗門帳」といった、村内の家族構成と人口を記した帳簿や、「年貢勘定」「村入用」という経費に関する記録が引き継がれている。状類では、「割付状」を中心に「村絵図」や各種の証文類があげられている。道具類は、鉄砲と升の二種類で、先の寺方村と異なっていることから、この村独特のものという推測が成り立つ。
表6-18 落合村安政六年村役人引継諸帳面
No. 名称 数量 備考
1 田畑名寄御水帳米永取立帳 2冊 封印之儘
2 村分帳 元禄十一寅年七月 1冊 封印之儘
3 古帳面田畑名寄帳 2冊 封印之儘
4 三ケ年平均御定免御請合証文 1冊 但シ封印之儘
5 平均御定□(免)御割附四分引 2通共 但シ封印之儘
6 □(皆)済目録 5通
7 御割付 15本 但シ封印之儘(以下略)
8 御法度五人組帳 2冊
9 田畑名寄帳(新帳) 2冊
10 村高帳 1冊
11 宗門帳 1冊
12 田畑米永勘定帳 1冊
13 村入用帳 2冊
14 御検見帳 4冊
15 辰巳午三ケ年平均田方御定免并ニ畑方勘定帳 30余 上紙共紙数 但シ宝暦十三未十一月
16 落合村山林秣野芝地御検分帳 1冊 但シ享保十年 上紙共紙数八数
17 御触書御請印 1冊 享和元年
18 御定免御証文 1通 但シ寛文五丑年
19 高札書替相渡ニ付百姓江申渡御請印連名帳 1冊
20 御拝借鉄炮 当時彦太郎預リ 1挺
21 京升 2ツ 但シ壱升壱ツ壱合壱ツ
22 浪人取締廿壱ケ村儀定証文 1通
23 村方小前印鑑帳 1冊
24 御改革帳 4冊
25 春割帳 1冊
26 大豆取立帳 1冊
27 御蔵番人帳 1冊
28 国役割合帳 1冊
29 上下郷割帳 2冊
30 村絵図 1枚
31 田畑御調ニ附村議定証文 1通
32 給米割合帳 1冊
33 拾ケ年賦帳 2冊 外ニ小書物品々
34 堰扶持割渡シ帳 1冊
(注)資二社経65より作成。

 二つの村で、それぞれ引き継がれた各種の文書をみてきたのであるが、双方に共通することは、圧倒的に年貢関係の書類が多いということである。そしてそれらは、村における耕地等の現況を示しつつも、過去からの様々な情報を蓄積するものでもあった。作成記録され、保存管理されていく文書類が、重要だという認識に基づいた優先順位に従って引き継がれていくのだとすれば、村の運営において最重要だと人々が考えていたものは、「年貢」と「土地」だということがわかる。
 ところで、年貢関連の様々な帳面類、ならびに村の運営に係わる書類は、こうした引継文書以外にも存在している。一例として、乞田村で、作成されていたものをあげてみよう(叢書(3)佐伯信行家伝来文書群六〇~一一五ページ)。表6―19に示したものは、化政期から幕末期に作られたもので、いわば定型化された書類とみてよいものである。合計二二種類のうち、「年貢皆済目録帳」をはじめとした年貢、および「国役金取立帳」などの役負担関係のものが一四種類となっている。この時期の小物成として、大豆・荏胡麻が徴収されていたことがわかる。また、「家並取立帳」の内容をみると、ほとんどの農民から一定額が徴収されていることから、ある種の棟別銭、すなわち家屋税的なものが賦課されていたことを知ることができる。
表6-19 乞田村定形書類
No. 名称
1 年貢皆済目録帳
2 年貢米永納帳
3 年貢金納帳
4 年貢米取立帳(年貢糯米取立帳)
5 大豆金納取立帳
6 荏金納取立帳
7 山永取立帳
8 国役金取立帳
9 足給取立帳
10 家並取立帳
11 御伝馬賃銭取立帳
12 御年貢米駄賃取立帳
13 御蔵米駄賃取立帳
14 御役金(御用金)取立帳
15 村入用高割(取立)帳
16 年賦金割渡帳
17 御用捨米割渡帳
18 御救米割渡帳
19 御扶持米割渡帳
20 堰扶持割渡帳
21 御下ケ金割渡帳
22 大豆荏代金割渡帳
(注)佐伯信行家伝来文書群より作成。

 以上のように、現存している史料群からも、村の運営が年貢の収取を中心にしたものであることがわかる。そこで次に、視点を年貢収納の具体的な側面へ移してみよう。