名主と年貢

883 ~ 885
「割付状」と「皆済状」が形式上のものになっていたわけであるが、実際の年貢額は、どのように決定されたのであろうか。その具体的な姿をみてみよう。
 近世の年貢は「村請制」といわれるが、その年貢徴収は、実際に名主によってなされている。したがってそれは、「名主請負制」とも言い換えることができる。そこで、乞田村・有山昭夫家伝来文書群のなかに現存している、明和八年(一七七一)付けの「日記并万控帳」を中心に、具体的な年貢の徴収をみてみることにしたい(資二社経91)。この資料は、乞田村の名主・茂兵衛が一年間の名主の業務を日記形式で記載していたもので、一年間の村の生活がよくわかる。
 さて、多摩郡の村々の年貢は、普通、夏成の畑年貢が六月、秋成の畑年貢が九月、そして年末に田の年貢、というように年三回徴収されるシステムであった。
 村の年貢の徴収は、したがって、夏成年貢からはじめられる。明和八年は、六月九日の名主の「触れ」からはじまった。この「触れ」の内容は、二十五日までに各人の年貢を組頭に納め、組頭は二十六日にそれを名主方へ持参するように、というものであった。この年は、かなりの少雨で、農作物にも影響が出ていた。ちょうどこの九日に雨が降ったために、翌十日も含めて、二日間の「正月」、すなわち村全体の休日とすることも一緒に触れられている。夏成年貢を組頭のもとへ提出する期限である二十五日には、役人寄合が開催されている。そこで、夏成年貢を金納する際の銭相場の検討がなされ、金一両に付、銭五貫五百文で換算されることが確認されている。
 ところが、二十六日が過ぎて七月二日になっても、夏成年貢は全額徴収できないでいた。しかし、村から領主への納入期限があることから、三日には、不足してはいるものの七両二分の現金と、儀礼化した小麦粉を、名主自身が領主の曽我七兵衛の屋敷へ持参している。しかし、この年貢は請取りが拒否された。賦課された年貢額に不足を生じている場合、領主はしばしばこのように請取を拒絶する。この日、名主の茂兵衛は請取拒否に対して、強く懇願し、内分に預かってもらうところにまでこぎつけたのであった。預かり書を受け取り、不足分については七月十日までの期限延長を認めてもらった後、帰村している。茂兵衛は、帰村の翌五日早朝に村役人を召集し、役人寄合を開催した。そこでは、領主の御屋敷での状況が報告され、不足分納入のために、九日までに名主方へ残額を集収することが確認されている。
 九日に再度村役人を召集するのであるが、結局のところ全額徴収が果たされなかった。そこで、徴収分を領主の屋敷へ持参することになるのであるが、その使者となる役人が決まらない。領主との折衝を忌避する空気が、この日の記載の行間から滲み出ている。最終的に、藤兵衛という役人が、十一日に現金一両一分を屋敷へ持参し、ようやく年貢納入が果たされたのであった。だが、なにがしかの不足分が残っているわけで、十七日までの期限延長を再度認めてもらい、十二日に帰村している。これをうけて、村内においては十六日までの年貢取り立て・徴収が徹底された。しかしながら十七日になっても、結局のところ三百文余りの未徴収分が残ってしまった。今度は二十日に吉左衛門が使者となり、徴収分の現金二分余りを持参、ふたたび残金の納入期限を八月十日まで延長してもらい、帰村している。
 以上の動きをまとめてみると、「夏成御年貢」の徴収がはじまって約一か月が過ぎてもなお、全額納入が果たされないでいた。残額は、村全体で「三百文」であった。この金額が払えないほどに、村人たちは疲弊していたのであろうか。
 その実態をうかがうことができる記載が、吉左衛門が領主の屋敷へ行った翌二十一日の箇所にある。ここでは、二十一日から二十三日の間に、「風祭」を開催するため、村全体で休日とすることが触れられたとある。さらに、八幡宮への御神酒上納のために一軒当たり三文づつ、村全体として一六四文が集められている。年貢残額の五割以上の金額が、祭りの酒代となっており、この徴収に不足分はなかった。すなわち、日常生活に支障を来す故に、年貢が納められないというロジックは、こうした祭りに対する支出が難なくなされている点から、否定せざるをえないのである。