村寄合と年貢

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続いて、秋成年貢についてもみてみよう。これについては、納入金額の問題から村全体で議論されているのである。
 八月九日に、村内の百姓である勘次が名主宅を訪れている。そこで、勘次が主張したのは、旱魃のために大豆が不作であるから、秋成年貢の減額を領主へ訴えてくれ、という要請であった。昨年、つまり明和七年(一七七〇)も不作の年で、大豆と荏という秋成年貢は半納に減額になった。大豆が不作だった農民は、購入してようやく年貢の納入をすませたのであるが、今年はそれ以上である。それにもかかわらず今年は何の音沙汰もない。このままでは、みんなが困窮してしまう、というものであった。村役人たちは、この勘次の意見について、十一日に寄合を開き協議している。そこでの結論は、十五日に領主のところへ出向き、そうした要請があったことを伝達する、というところに落ちついた。しかしながら、十五日は御屋敷から廻状が届いただけで、村役人たちの具体的な動きは記されていない。ただ、その二日後の十七日、村内の全百姓が出席する「村惣寄合」が開催されている。そこでは、大豆秋成の減額の訴えに関する議論がなされたのであるが、費用が少し嵩んでも、領主にこのことを訴えるべきだという結果になった。これをうけ、村役人たちは、近郊の同じ曽我氏の領地となっている上柚木・落合・寺方・一ノ宮村の役人たちと「五か村寄合」を開催し、同一歩調で、大豆秋成年貢の減額を訴えることに決するのである。
 八月二十三日、大豆・荏に関する訴えとして「御検見願」を、乞田村の茂兵衛が代表となって屋敷へ持参した。その内容は、上柚木・落合・乞田三か村での「検見」の実施要求であった。これによって、大豆納の減額、あるいは免除を許可してもらおうという目論見だったのである。茂兵衛は、二十四・二十五日の逗留を命じられた。この間、領地の農民の主張を、領主側が様々な角度から検討していることが、この事実から推測できる。二十五日の夜、茂兵衛は屋敷へ呼び出しを受け、大豆・荏納の「半納」という領主の対応を知らされたのであった。農民たちの主張がかなり認められたといってよかろう。ただし、乞田村が主張していた大豆納の免除は許可されなかった。「半納」分を必ず納入することと念を押された上で、茂兵衛は帰村したのである。
 二十七日の夜に村へ到着した茂兵衛は、早速翌日に役人寄合を開き、屋敷での結果を伝え、それをどのように全村の農民に伝えるのかを検討している。そして、二十九日、再度村惣寄合が開催されたのである。そこでは、屋敷で決定された、大豆・荏納は昨年通り半納となったこと、そして大豆納の免除は不許可であることが伝えられたのであった。その時の農民たちの様子を茂兵衛は、「大方とくしんニ見江申候」と記している。
 そして九月一日に、秋成年貢を三日までに納入するよう触れを出している。しかしながら、今回の秋成も期限通りには納入されなかったようで、村役人の寄合が頻繁にもたれている。
 十一日に開催された村役人寄合では、組頭の中で誰が屋敷へ年貢を持参するのかが相談されている。しかしながら、組頭は全員拒絶したようで、最終的に名主の茂兵衛が持参することになった。十二日、秋成金二両を持参したのであるが、屋敷では納入金額不足で受け取りを拒否されたのである。結局、翌日帰村した茂兵衛は、さらに十三日夜、そして翌十四日朝に寄合を開催し、不納者については呼び出した上で納入を促すこと、それでも実行されない場合には、屋敷へ差し出すことを決めている。十八日に再度役人寄合が開かれ、各組ごとの不納者の確認を行っている。十五日には八幡宮の祭礼として、氏子一人につき二文ずつが徴収されているが、こちらの方はスムースに集められたようで、それらを持参した役人たちは赤飯と酒を振る舞われている。
 さて、秋成年貢の方は、二十四日に三両三分が上納された。しかしながら、やはり不足分が残り、期限延長が認められている。しかしながら、十一月三日の時点にいたっても、全額納入は果たされなかった。
 この、秋成年貢に関しては、村内における役人寄合と惣寄合で様々なことが議論され、領主との折衝がなされていったのである。年貢が一方的に領主側から押しつけられたものではなく、農民たちの要求と領主側の事情が種々の面で交錯し、妥協がはかられていたことが、こうした事実から浮かび上がってくるのである。