乞田村の名主茂兵衛は、十一月四日に八王子の町へ出かけた。米相場を確認するためである。いきつけの米問屋・定右衛門のところで、この日の米と荏の相場を聞いている。もともと八王子は、四と八の六斎市を開催しており、江戸期を通じて定期的に市場が開かれ、相場がたっていたようである。この日の相場は、
米相場付写
覚
一、米九斗替 両ニ付
一、荏壱石三斗かへ 両ニ付
右之通り御座候、以上
十一月四日 米や 定右衛門
覚
一、米九斗替 両ニ付
一、荏壱石三斗かへ 両ニ付
右之通り御座候、以上
十一月四日 米や 定右衛門
であった。
茂兵衛はこの結果を翌五日に、領主のもとへ伝えている。領主側はこれを受け取り、すぐさま六日に、茂兵衛宛の返書を送っている。そして、この日の相場で年貢米を売り払い、換金したうえで上納するよう命じている。すなわち、米納とされるシステムは、農民から集められた米を村役人がまとめ、市場で米問屋に販売し、その換金分を領主のもとへ納入するというものであった。
ところが、この明和八年の場合には、若干難しい問題が惹起している。茂兵衛をはじめとする五か村の役人たちが、領主の指示に従い、年貢米を売り払うため、八日に八王子へ出かけていった。ところが、この日の相場は一両当たり米九斗二升に値下がりしていたのである。そこで、五人は相談して一両当たり九斗一升の換算で、定右衛門に年貢米を販売することを決めた。しかしながら、この決定はあくまでも村役人である名主が下したもので、領主の了解は得られていないのである。名主たちは、早速、翌九日に飛脚によってこの事態を報告した。そこで述べられているのは、次のようなものである。
八日に八王子に出かけましたところ、いよいよ不景気になり、米相場が下落し、一両当たりの米価格が九斗二升に下がっておりました。米相場の様子を見ておりますと、益々米価格が下落してくる気配でございましたので、米屋・定右衛門と交渉し、やっと一両当たり九斗一升で売り払うことに決めてもらった次第です。売り上げの書類は必ずお届けいたしますのでご安心下さい。以上御報告いたします。
この報告書を持参した飛脚が、十日に帰村するが、領主側からは何のコメントも付されていない。つまり、領主側が村役人のとった処理をそのまま承認しているということなのである。この事実が物語っているのは、名主クラスの村役人に、米の換金化に関するかなり大きな権限が与えられていた、ということである。米相場の動きに対して、村役人の対応が適正である場合には、領主はそれにしたがっていたことがわかる。ただし、いつも村役人たちの報告による相場で、米の換金額が決定されていたわけでもない。同じく乞田村の場合であるが、天保九年(一八三八)は十月九日に米相場の報告がなされた(資二社経94)。そこには、
八王子の米問屋に種々掛け合ったのですが、一両当たり米四斗四升以上の高値にはなりませんでした
と記されている。それに対し、乞田村をはじめ多摩地域の五ヶ村を担当する領主側の役人からは、
「江戸表の相場は、上物の米が一両当たり四斗二升六合くらい、中米が四斗三升から四升五合くらいになっている。これから比べると、どうも八王子相場は安すぎる。もう一度米問屋に掛け合い、せめて一両当たり四斗三升くらいで契約し、その代金を上納するように」という書状が出されている。明和年間に比して、領主側での、相場情報の掌握が進んでいることを想像させる。
しかしながら、確認できることは、次のような点である。最終的な米の換金率は、領地の名主と米問屋に委ねられており、領主も名主に、より有効な換金率で交換が出来るよう要請するだけであった。それは、自らがその金額を決定し、年貢納入者に強制するというシステムではなかった、ということである。