年貢額決定のシステム

890 ~ 891
夏成・秋成の畑方年貢と年末の田方年貢の納入に関して、具体的な姿を追ってみてきた。ともすると、年貢は一方的に領主が通告し、農民はそれに黙々としたがうものと理解されがちであるが、実際の年貢徴収と年貢額の決定は、そうしたイメージには合致しない。実際には、領主側と村側での様々な折衝によって、決まってくるものであった。
 ここで、指摘しうることは、まず田方米納とは言っても、その納入形態は現金だったという点である。夏成・秋成に関しても現金納であったことを考え合わせると、多摩市域の村々では近世中・後期の年貢はすべて「金納」だったとすることができる。ただし、畑方に関しては農民一人ひとりが自ら換金し、田方に関しては、村役人がその責任において換金したという差が存在している。すなわち、個人によるものと組織によるものの相違がある、ということである。その相違は、情報の収集というところに集約されてくるだろう。組織の場合には、役責を担った人間が代表となって集めるだけに、それはかなり正確である。ましてや、領主への対応および最終的な決裁権も有しているところから、重みがあるものといえる。個人の場合も、結局のところは村役人からの情報になるわけであるが、換金のタイミング等は、個人の判断に委ねられてくる。このような状況から、近世が多分に情報を必要とし、それに基づいた経済活動がなされる社会であったということができよう。
 もう一つ確認しなければならないことは、年貢の決定をはじめとする様々な村での重要課題は、寄合という合議形態によって話し合われ、その結論をもって総意とするシステムがとられていたということである。寄合についても、村方役人だけの寄合、同じ領主を有する村域を越えた広域の村連合による寄合(先に述べた乞田村の五ヶ村寄合のようなもの)、そして村の農民が全員参加する惣寄合、という三つのタイプに分けることができる。その他、時期によっては様々な組織(たとえば、改革組合・助郷組合など)の寄合が存在していた。したがって、村の人々の生活に影響を及ぼすような事項が、上意下達的な一方向から伝達されるだけの社会ではなかったのである。年貢額の決定の際に顕著なように、機会があるごとに意見が開陳され、それに基づき話し合いがなされていたのであった。
 領主は村側の意見を掌握しつつ、また、村は領主側の出方を判断しながら、様々な折衝を通じて、双方の利益が満たされる妥協点を見出す作業を繰り返す。これが近世の村だったのである(神立孝一「近世の村と村役人(一)・(二)」、八王子市郷土資料館『八王子の歴史と文化』八・九)。